クリスマス過ぎたら一気に年末モード。
そんな波乱万丈な一年。
2015年を振り返ってみようと思います。
例により長いです。ずらずらと書きます。
なので、エッセイぐらいの気分で読むことを覚悟してください(笑)
○2月にようやく年金の書類を提出し、5月に連絡があり、なんと12年も遡って障害認定された事実。
なんならまだ籍入れてなかった。
(そのため追加の手続きが増えたが)
7月に精神障害2級の認定をもらい晴れて?障害者になり、家族の中が揺れました。
両親はなかなか受容できずにいました。
しっかし、アレですね。
色々手こずりながら子育てしたり、仕事したりして、いつも「生きづらさ」を感じていましたし、なんであんたはうまく立ち回れないの!と常々周囲から(特にわたしの家族)叱責されていましたが、そーゆーことだったのか…
そして躁鬱なため、病院には気力がある日にいく➡︎ハイな状態 で受診なため、主治医も 躁鬱と診断するまでに時間がかかりました(仕方ない)(むしろ気づいてくださってありがとうございます)(自分でもよくわからずモヤモヤし続けていました)
○生活苦に苦しんでいましたが、とりあえず借金を返済しました。膨大すぎて把握できていないものも…そして、わたしの年金を足しても生活苦なのはやはり…。
オットの年収が300万割ってる(営業職、39歳、大卒)のはなんなんだ…。ああ、イラっとする。
○あるハイな日に飲みに行き、朝帰り。足を捻挫。
酔っ払った末の捻挫なため、ほっておかれたし、落ち着いてから接骨院に通いました。
しかし、治らず。
ある日、足根洞症候群かも…整形に行くように言われ(近くにないんだよなあ)行ったら、死ぬほど怒られました。
な ぜ に 整 形 に こ な か っ た と。
(遠いから。運転したくないから)
靭帯ががっつり切れてありえないくっつき方をしていたらしい。治んないよ、と。
ああ、躁のバカ。ってわたしのバカ。
一時期、酒量が増えて最近は肝機能もかなりやばく、たいした飲めなくなりました…
○明らかにQOLが下がっている件について。
飲みすぎるたびにやらかしたり、その度に劇鬱になり、必要なことがやれなくなる。自己管理できてないし、散らかり放題。自宅にいる時間の9割は布団ぐらし。
で、たまに躁になると出かけたくなり…のループ。最悪。
太り続けるし。
○やたらと不祝儀が多かった。
昨年、義父が死んでから、さらに今年は1月に(娘)保育所の先生が癌死。まだお若いのに。
わたしを可愛がってくれた大叔母が自宅で衰弱していたのを相当経ってから家族がみつけ、入院するも死去。しかも密葬だったのでお葬式にもいけず、悲しい限り。
3月には病院勤務時代の上司が定年20日前に癌死。発見から半年。舌癌というか、甲状腺というかそのあたり。震災時は精神病院に勤務していて、床で仮眠をとりながら1日一食のカップラーメンで過ごしていた薬剤師の彼女。
夏休み前に異変を感じながらも、子供がいる職員に優先的に夏季休暇をとらせて、発見がおくれたという、なんとも彼女らしいことでした。
わたしは臨時職だったので転職せざるをえませんでしたが、その後もずっとお付き合いが続いて。
唯一無二の方でした。
その直後に息子クラスメイトママも癌死。わたしと同じ年。子宮頸がん。
保育所から同じだったので、特別親しくはなくてもいつもお会いする人で。まさか…と。
お子さんも当然息子と同じ年。あまりの寂しさに泣きました。
7月に親友の妹で、わたしの部活の後輩(中学)が癌死。肺がん。酒もタバコもやらない、熱心な看護師だった彼女。
彼女らのお父さんも若くして同じ病気で亡くなっていたので…神様なんかいないんじゃないか、と本気で泣くことしきりでした。
主な別れはこの人たち。大叔母を除いてはみんな若くして癌死していて、どうしてわたしじゃなくてこの人なんだろう…と毎回思いました。
特にわたしより若い後輩の時は、お葬式にはいけなかったのですが(親友はわたしを心配してすぐには言わなかったため)聞いたときには親友と電話で泣き崩れました。
あとはやはり上司かな。あまりにもわたしの中で大きな人すぎて、今でもまだひょっこり「そろそろ一杯やりますか」って連絡が来そうで。
あんなに人前で泣き崩れたことがあっただろうか。
生前、よくお墓の希望(ご主人は前の奥様も早くに亡くして再婚だった。彼女との間にはお子さんはなし)をわたしに話していたのだが、実際にお葬式になってみたら詳しい希望を伝えられていたのはわたし1人だったことが判明。
ご主人はなんとなくしか聞いておらず、ご実家の弟さんに至っては初耳だったとか。
しかし、わたしが伝えた通り…彼女の希望通りに納骨されることが決まったとご主人から連絡がありました。(埋葬云々で色々役所と絡みがあり大変だったようですが)
もし、これが彼女の本意であれば、至らないわたしの唯一の先生孝行だと思いたいです。
○一方。義実家とは新盆や一周忌に帰省してあまりにも色々ありすぎて、しばらく…なんなら数年単位で…距離を置くことにしました。
義母に異変(死にそうだとか、介護が必要とか、人に迷惑をかける状況とか)がない限り、わたしから出向くことはないでしょう。
オットはご自由に、ですが、わたしの子供達も一切会わせる気がありません。
相続は放棄していますしね。
ちなみに捻挫の悪化もこれが一因。固定外して正座してましたからね、嫁。マジで痛かったっす。足はパンパンに腫れてるし。
義父の形見の車も(義父さんには悪いけど)手放して買い換えました。
思い出が大事なのと、死者に縛られる…または死者の気持ちを勝手に代弁して人を思い通りにさせようというのは大間違い。
そして、親きょうだいでも踏み越えてはいけない線がある。
わたしなりにやってきた。無理もワガママも聞いてきた。いくらけなされても陰で泣きながら我慢した。
でも、それもやめました。
義父というパイプ役を喪った今、義実家とは交わることができなそうです。
義母だけではなく親類も。
(一部の伯母たちは あなたはしばらく無理しないほうがいい、無駄だから。とアドバイスをくれました)
年賀状の筆が進まないのはそんな理由。
○ついでに娘も卒業しつつあります。
しばらく音信不通だった実弟が実家に帰ってきてくれました。
わたしの親は割と支配的な親で、いくつになっても親が一番怖いわたし。しかし、それも脱ぎ捨てていい気がしました。
こちらは絶縁ではないけど、共依存に気づいただけ。
実弟が実家にいるため、今までわたしにヘルプを求めていたものも、実弟が引き受けてくれました。少し荷がおりました。
○色々悩みながらの母をサポートしてきてくれた子供達。
家事や保育所のお迎えまでしてくれて、
「お母さんは少し休まないとだめだよ、お願いだから無理しないで」という息子。
大好きなお母さん、僕が大人になってもみていてね。生きていてね、と。
母親が病気だ、とようやくわかった娘。発達が遅めな子ですが
「あのね、お母さんはいてくれるだけでいいの!!」と伝えてくれた娘。
これだけがわたしの宝物です。
オットは…もう少し頑張りましょう…まず言い訳しない(꒪Д꒪╬)正直40までに転職してほしい!!あと1年きりましたよ…
そんな波乱万丈な一年。