- 死にいたる病 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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▼ (本題の前に)、人間とは何か?の定義 (*以下訳注を参照しながら書いた。)
人間は精神である。(では精神とは何か?)精神とは自己である。(では自己とは何か?)自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。自己とは関係そのものではなく、関係がそれ自身に関係するということである。つまり二つの関係があったとして、第三者が自己である。
そして関係には例えば、無限性と有限性、時間的なものと永遠なもの、自由と必然など相反する二つの関係項があるが、その間に成り立つ固定した関係ではなく(=消極的な第三者的関係)、その関係項の相互関係の仕方のそれ自身に対する関係の仕方に応じて関係そのものにいろいろ違ったふうに成り立つことのできる動的な関係が(=積極的な第三者的関係)、真の自己である。言い換えれば、関係は「状態」ではなく、(それに対する)「態度」であり「行為」である。
「関係がそれ自身に関係する」とは、関係が自らを意識あるいは反省することであり、さらに言えば、関係が自らに対して一定の態度をとり、内面的な意味でみずからに対して一定の行動をとることである。すなわち「意志」、「決意」もしくは「決断」である。
以上のキルケゴールの「人間」の本質規定は、人間の理想像であり、人間の実現すべき課題、使命として示されている。つまり初めの問いは、人間とは何か?というよりも、「人間とはどうあるべきか?」という善を希求する命題だったと言えるだろう。
このように最初に明快なゴール(目標)が示されるのは、とても清々しいことであると感じた。その上このように人間に対する最高の要求を定義した上で、人間の絶望に対する考察を進めていく本書は、ある意味『最高にポジティヴ』だと言えると私は思う。絶望は、他の動物にはできない、崇高な人間の特権であるという人間の崇高さが前提となっているからである。(余談だが、これは奇妙な響きのする、人間の定義である。面白い。)
▼ 死にいたる病=絶望
さて本題の死にいたる病であるが、これは絶望のことであり、ただし普通の病と違ってかかっても死ぬことは無いため、永遠なものである。この文脈から言えば、「死」というものも肉体的な死のことではなく、仮に肉体的に死んでも永遠に続く「最後」のことであろう。
また、絶望は弁証法的にとらえるべきものである。絶望していないということは、それこそ絶望していることであり得る。気分がすぐれない(鬱)であるということが、ただちに絶望しているとは限らない。むしろ気分のすぐれなさをかつて感じたことが無い人は、それこそまさに絶望していると言える。これはまさに18歳、大学1年生までの自分である。当時は毎日がただ楽しく、人が苦悩しているドラマや小説に心底から共感することが無かった。ただ、面白いことにその自分の状態は「何かおかしい」と自ら気づいていた(手前味噌ながら自己を持っていたのだろう)。それもあってか、大学1年の終わりごろから徐々にいろいろと自分について悩み始めたが、そこで自分はようやく正しい人生行路を進んでいるという自覚と自信を持ったことは、うそではないと思う。
本書でキルケゴールも、「絶望は、病ではあるけれども、それにかかったことがないというのは最大の不幸(p.52)」と言っている。(ただし生涯を通して最も深い絶望にかかっていた、その本人の弁であることは留意しておく必要はあるだろう。まぁ私は全面的に彼の支持者であるが。)
▼ 絶望の諸形態(分析・分類)
絶望の諸形態は、抽象的には、総合としての自己を反省することで分類される(p.57)。たとえば自己の無限性と有限性の関係に対する関係という観点から。
しかしながらもっとも重要なのは、「自分が絶望していることを」意識しているのかあるいは無意識なのかであり、すなわち意識と無意識という規定から分類するのが望ましい、とキルケゴールは説く。
(続く)




























