八木、郷原の2人は、ことを一担当者やしさいな手続きの問題にわい小化しようとしている。起こってはいけない誠に残念な事故、担当者個人の特異な資質、正義感のあまりの行き過ぎた捜査、古くて複雑なシステム、などなどにこじつけ、「まあ、ある程度はしょうがなかった。」で数年かけてゆっくりと、ことを落ち着かせようとしている。犯罪はうっすらと日本人の忘却のかなたへ、原発事故と同じ処理である。

マスコミやネットに登場した初めから今日まで、過去に残した言葉と行いさえよく見れば2人に課せられた役割ははっきりしている。

できるだけ肩書きのある(社会的に信用されそうな)有名人の傍らで、「日本が厳格な法治国家である」というまったくの絵空事を大前提に、起こった事実とは無関係な詳細な法律論や倫理論やあるべき論でえんえん言葉と時間を浪費してきた。否、日本は昔から私的なコネとカネと洗脳による人治国家である。

その一方で彼らはなぜか、検事・裁判官らによる具体的犯行の手口や役割分担、明確な政治的意図と私的動機、常態化している検事・裁判官・マスコミ関係者の間の黒いカネと秘密情報のやり取り、検察&裁判所&警察の深い組織的関与を示す証拠や情報、といった核心部分の片りんがおもてに出てくるたびに、突然人が変わったようにクールも論理も放り出して根拠も示さずヒステリックに全否定、「オカルト」「陰謀論」のレッテル張りを執拗に繰り返してきた。

思い返してみよう、西松事件以来これは決して一度や二度のことではない。彼らは一見言葉巧みに中立を装いながらつねに、孫崎さんや植草さん森ゆうこさんら命をかけて真実を追求する人々の素朴だがしかし分かりやすい力強い言葉とは異質な、たいへん雄弁だが肝心な部分で焦点のぼけたうまい言葉づかいをする。そして何よりも小沢事件に対する現実の態度と行動が、真実を追求する者たちとはまったく異質である。

本人たちがどのようにうまく論理を組み立てて自己正当化するにせよ、あるがままに実績だけを見れば、これは戦後日本で半世紀みなさまおなじみの、真犯人には痛くもかゆくもないマトハズレな「裏情報」をじゃぶじゃぶ流して野次馬の注意をそらすガス抜き要員、エセ進歩人に他ならない。今もほとんどの日本人にはリベラルということになっているらしいテレ朝やTBSには欠かせない貴重な存在である。そういえば彼らの本もなぜか小沢潰しの急先鋒「毎日新聞社」から出ていたような、まあこれはちょっと考えすぎか・・・・・・・・・。