デヴィッド・アーチュレッタ

David Archuleta

っていうアーティスト、知ってます?

 

僕は

2008年に(15年前ですね)

米国のTV番組

「アメリカン・アイドル」というTV番組に

彼が出ているのを(YouTubeで)見て

知りました。

 

「アメリカン・アイドル」というのは

「アメリカズ・ゴット・タレント」とほぼ同じような趣旨の番組で

(プロではない一般の人で、実は もの凄い才能を持っている人を発掘するという趣旨の番組で)

「アメリカン・アイドル」は

「歌のうまい若者」だけに焦点をしぼっています。

 

デヴィッドは

当時 16歳の高校生だったのですが

彼のパフォーマンスは

「彼が真摯であること、誠実であること」が

とても伝わってくるもので

彼の歌を聴いて

僕は彼のファンになりました。

 

彼の「イマジン」のパフォーマンスが

いちばん 僕の心に残りました。

(YouTube にずっとアップされたままにしてほしい、このパフォーマンス。)

 

(1番を歌うのではなく)3番の歌詞を選んで歌うところが

とても彼らしいと思うのです。

 

 

 

彼は、日本でどれぐらいの知名度があるのかな?

よくわかりませんが

以後、僕は折に触れ

彼の歌っている動画をYouTubeでみるようになりました。

 

彼が

昔で言う「モルモン教」の

敬虔な信者であることも知りました。

(今は、「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言うのですね。)

(英語では、The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints(LDS))

「モルモン教」と聞くと

僕には

「同性愛に非寛容なキリスト教の宗派」という連想が

真っ先に浮かんできます。

 

 

そして

先日、ひさーしぶり(数年ぶり)に彼の動画が「おすすめ」で挙がってきて

見ていくと

彼が2020年前後の数年間、精神的につらい状態にあって

心理療法を受けていたこととか

(その名も「セラピーセッション」というアルバムを出していることとか)

そして、なによりもびっくりしたことに

2021年に、彼は、

自らが男性に惹かれる性指向を持っていること

自分のセクシュアリティについてずっと悩んでいたことを

公に明らかにしていたのです。

 

 

英語だけの動画ですが

彼が 2022年に

LGBT(LGBTQIA+)の人々を支援するための、

ミュージシャンの集まりに出演したときの語りが、

とても印象的だったので

シェアします。

涙ながらに、自らのセクシュアリティを

ずっと隠さねばと思ってきたこと、

ずっと「変えよう」「取り除きたい」と思ってきたことを

語ります。

そして、

(声帯の手術を終えたばかりだ、という状態で)

「グロリアス」という曲を熱唱します。

(この動画も、ずっとアップしていてくれるとよいですが。)
 

 

 

このときの彼は30歳。

 

決して

同性愛に対して寛容とは言えないキリスト教の宗派のクリスチャンであったため

(敬虔なクリスチャンであったため)

彼は

セクシュアリティも含めた自分自身を肯定するのに

こんなにも長い年月を要することになったのですね。

 

 

彼は

ほかにも

インタビュー動画で

教会の指導者と、自らが「クイア」であることについて話をしたときのことについて

語っています。

教会の指導者のリアクションは、

彼のおかれた状態に対して、決して「理解を示す」ようなものではありませんでした。

 

 

彼が公に「カムアウト」することにした理由の一つは

彼と同じように「信仰」を持ち

自らのセクシュアリティとの折り合いをつけられずに

苦しんでいる人がいるだろうが、

そのような人たちに

「信仰」を持ちながらセクシュアリティを含めた自らを肯定すること・受け入れることが可能だと伝えたい、

そういう強い思いがあるから、

です。

 

 

セクシュアリティのあり方が大多数と異なる、ということを

「許容」しようとしないキリスト教の宗派が

いまだに存在しているわけですが、

彼が、自らの体験に基づいて語る言葉は

(涙ながらに語っているわけですが)

本当に

本当に

力強いです。

 

周囲に存る偏見を内在化した若者が、

当初、自らのセクシュアリティを受け入れられず悩み、

しかし、次第にそれを受け入れていくというストーリーは、

もう、何世紀にもわたり

何百回、何千回、何万回と繰り返されているストーリーです。

 

僕は

彼の語りを聴いていて

「まだ、このストーリーが繰り返されるのか」

と最初、思いました。

 

「いつまで、このストーリーは繰り返されるのか」と。

 

 

そして、そのあと

彼のインタビュー動画をみて

こう思ったのです。

 

ああ、これは、単なる(同じパターンの)繰り返しではないんだ。

 

繰り返されることによって

なにかを変えていっているんだ。

 

ストーリー自体が

変容していっているんだ。

 

ストーリー自体が変容することによって

この世界を変えていっているんだ。

現実を変えていっているんだ。

 

 

そんなふうに思えたのでした。

 

 

 

彼が

COVID-19の最中につくった楽曲

 

"Just Breathe"

「ただ呼吸してください」

 

も、とても美しいです。

 

 

 

 

デヴィッド・アーチュレッタ
David Archuleta

という美しい魂の持ち主に、

勇敢さを備えた人物に、

心からの賞賛と

「ありがとう」を伝えたいと思います。

 

 

 

 



 

 

ふだん、

「ノンケ」の男性を好きにならないようにと、

無意識のうちに、制限をかけてるのって、

(あらためて考えると)

けっこう、メンドーなことだったりするのかもなあ。

 

 

これって、

ノンケの人たちが、

「既婚者」(とか彼氏持ち)を好きならないようにしよう

と思っているのと

おんなじようなことだ、

って言えるんかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2話の最後の場面(「春田さん、ずるいですよ」「普通には戻れないです」)と、

最終回のプロポーズの場面を、繰り返し見ている (^^)

 

 

で、

いやあ、

自分で自覚していなかった。

ホントに自覚していなかった (^^;

 

 

 

「ゲイ」だと気づき始める前の、あるいは、

「ゲイ」だと気づき始めた頃の、

「ノンケ」を好きになっていた頃の自分が、いかに傷ついていたのか、ということに。

いかに、絶望感みたいなものとか、無力感みたいなものを、しょいこんだのか、ということに。

その頃に抱え込んだものが(その後も未消化・未処理のまま)どれだけ残っていたのか、ということに。

どれだけ背負ったままだったのかということに。

(重い重い(笑))

 

 

 

「おっさんずラブ」を

見るたび見るたびに、

いまだに、「軽くなる」「軽くなる」ということが続いている、

ホントに、自分でも、ホンットに

予想外だったことだ (^^;

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

「ノンケ」だった春田が、

同性の牧を好きになる、なんて、

ドラマだからあり得ることだ、

と言えてしまうかもしれない。
(あるいは、

春田は実際には「バイセクシュアル」だったのだ、

という言う人もいるかもカモ?)

 

 

 

だけど、

だけど、思いませんか?

 

 

 

圭さん演じる春田は、

めっちゃリアルで、

めっちゃリアリティがある。

 

春田が牧に「好きだ」と叫ぶ姿は、

めっちゃ説得力がある。

 

 

 

だから、

(俺は思うんだけど)

これはフィクションであるけどリアルなんだ。

リアリティと同じぐらいリアルなフィクションなんだ。

 

 

そうなってくると、

もはやフィクションとリアリティを区別する意味(必要性)もなくなってくるかも、

と思うぐらい。

 

 

 

少なくとも

俺には、たぶん

リアリティと同じぐらいの影響力を及ぼしている、

ように思うのだ。

 

 

 

彼に、

リアルな存在感の重みのある「春田創一」という人物に、

俺は救われた気がするよ。

 

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

 

春田は、牧を好きになることができて、

よかったよね?

 

 

両想いになることができて、

よかったよね?

 

 

 

せっかく牧と知り合って

関係性が深まっていったのだから、

「ノンケ」だから、という理由で、

牧とつき合えないなんて、

それは、もったいなさ過ぎるものね。

 

 

 

「ノンケ」と「ゲイ」っていう垣根は、

(その間にある、と思われている垣根は)

飛び越えられるものだって、

そういうリアリティを、リアルに、説得力をもって描いてくれた、

このドラマは、

ホントにホントに、スゴイ。

 

 

 

これまで、超えられない垣根だと思われていたものだけど、

これからは、超えられるものだって、

変わっていったりして。

ってか、変わっていくんじゃないかな??

なんか、そんな気も、俺はするんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

「おっさんずラブ」の中では、

一度も

「ゲイ」とか「同性愛」なんている

(ましてや「ホモ」なんていう)

「カテゴリー化」するような言葉が使われていないよね。

(「あっち側」ってのが一回あっただけ。)

 

 

たぶん、

そういう、「手垢のついた」言葉に染まらないようにしつつ、

純に、

純粋な形で、

男性と男性と恋愛を描きたかったから、

視聴者にも、純粋な形で、男性と男性との恋愛を感じてほしかったから、

なんかなと思うけど、

どっかで、

制作者 and/or 役者さんが

そのへんのことを、語ってくれてないかな? 

 

どなたか

ご存じだったら

ぜひぜひ

おしえてくださいぃ~~~

 

 

めっちゃ訊いてみたいと思う(笑)

 

 

 

 

 

 

 

「ノンケ」だったはずの春田が、

牧を好きになって

本当に好きになったようで (^^)

ラストでは、

「ずっと一緒にいたい」と言い、

「結婚してください」と

春田から牧に告げる。

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

第2話で

「春田さんが、本当に好きなんですよ」と(キレ気味に)告られ、

それに対して、

「裏切られた気分だわ」と言い放ち(牧を傷つけまくり)、

帰宅する春田。

 

 


牧がつくっておいてくれたカレーが、

「くっそー、超うめえ。」

 


 

そのカレーには、

牧のやさしさや思いやりがこめられている。

春田もそれを感じる。

噛みしめる。


「超うまい」と感じたのは、

きっと、

牧の思いやりが、こめられているから、

という部分もあるのでは?

 

 

 

【その思いやりさえも、

 否定されなければダメなもの??】

 

 

 

春田は、家を飛び出し、走る。

牧をさがして。

 

 

「なんで走ってるんだ、俺。」

 

 

このときの春田の思いは?

 

「(いい友達なのに)友達を失いたくない」という思いなのか?

 

 



まちがいなく

春田のほうも、牧を好きなのだ。

「フツーの友達以上に好き」

という表現が、もしかしたら、当てはめる「好き」なのかもしれない。

 

いやいや、その「好き」を、敢えて「分類」しなくてもよいのかもしれない。

分類することによって「好き」に制限をかけることになるなら、

敢えて、分類など、しなくてもよい。

しないほうがよい。

 

好きなままで、お互いに好きなままで、

一緒にいたら、よいではないか。 

そうではないか?

 


 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

思いやりのこめられたカレーをつくる牧、

春田を好きだという思いも、そのカレーには、自然、こめられるだろう。

→となると、そのカレーをつくってもらうことも、拒絶しなければならなくなるのか?

 牧の「思いやり」も拒絶しなければならない?

 牧の、春田を好きだという思いを、「すべて」拒絶しなければならない?

 

 

 

 

牧をさがし続ける春田は、自問する。

 

「たしかに、牧との生活は楽しかった。」

「もし、牧が女だったら、あの告白はうれしかったのだろうか。」

「ただ、牧が、男だからだめなのか?」

 

「俺は、俺は・・・・」

 

 

 

階段の上で春田は叫ぶ。

 

「俺は、ロリで巨乳が好きなんだー、

 くそーー!」

 

 

 

 

字面だけではギャグにもなり得るこのセリフを、

田中圭さんは、春田の思いで叫ぶ。


俺は、もう涙が止まらなくなる。

止まらない。

 

 

 

なぜ、

春田は

「くそーー!」

って言うんだと思う?

 

 

この

「くそー」

には、どんな思いがこめられている?

 

 


 

(もちろんこの時点で春田には意識されていないだろうが)

この叫びには、

「ロリで巨乳好き」な自分だけでなく、

男である牧が自分を好いてくれているその思いを、

「受け止められる」自分になれない、

その自分の、リミット(限界)に対して、

「くそー」と言っているとも

とれないだろうか?

そのようなものも含まれていると

とれないだろうか。

 

 

→(ラストの展開を考えれば)

 そうとってよいと思う。

 

 

 

春田は、牧の「好き」に応えたい、

(応えられる自分になりたい)

そう思っている部分があるのだ。

 

 


 

「だれかを好きになること」に

制限をかけなければならないとしたら、

それは、めちゃくちゃ、残念なことだ。

 

 


制限をかけることなんか、ないじゃないか。

 

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 


ラストシーンで、

「ノンケ」だったはずの春田が、

自ら境界を超えて、

「あっち側」から「こっち側」へと道路を渡り、

牧を抱きしめた。

 

 

 

「あっち側」と「こっち側」を隔てる

境界なんか、

本当は、要らないんだよ。

 

 

 

要らないんだお (笑)




 ~ ~ ~ ~ ~


最終回、ラストシーンでは

性的に興奮して、性的な行為も持てるのか、

という部分も、

最後の最後で、ちゃんと示唆されていた。

 

ぬかりない(笑)

 

このドラマは本当にすばらしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

「おっさんずラブ」

2巡目(笑)

見てたら、

詩のように、

以下の言葉が、

浮かんできたよ(^^)

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

人を好きになっちゃいけない、なんてことは、ないんだよ。
ゼッタイ、ないんだよ。


どんな相手でも。

本当に、どんな相手でも。


どうな条件下であったとしても。

本当に、どんな条件下であったとしても。

 

 

「好きになっちゃいけない相手」
なんて、
ゼッタイに、
ゼッタイに、いない。
あり得ないよ (^^)

 


どんなに、年齢が離れていたとしても。
「不倫」だったとしても。
相手が同性だったとしても。
複数の相手を好きになったとしても。
複数の相手から好かれているとしても。


だれかを「好きになる」ことを、制限しようとすることがあり得るのは、
だれかを「好きになる」ことを、「いけないこと」と言うことがあり得るのは、
単に、
ただ単に、
僕たちの、この世の中が、まだまだ「未熟(成長の途中)」だからなんだよ。
僕たちの、魂の成長が、まだまだ「未熟(成長の途中)」だからなんだよ。


ただ、
単に、
それだけ。


僕たちの世界が、成熟するにつれ、
僕たちの世界が、「ひとつ」になっていくにつれ、
「そんな人を、好きになっちゃいけない」

なんていうセリフが、
どんどん、

どんどん、

聞かれないような、

世界になっていくんだよ。


好きになることに「境界線」がなくなっていくから、
「どんな」境界線もなくなっていくから、
「嫉妬」なんていうこともなくなる。
ひとりだけ特別の存在がいてもいいし、
そうじゃなくて、
「たくさんの特別な存在」がいてもいい。
一人だけに限定しなくてもいい。
どっちでもいい。
なんでもいい。


制限が外れていけば、
「好きになる」ことのバイブレーションも上がっていく。
「好きになる」ことの質(クオリティ)も上がっていく。


相手が物質的なだけでなく、

相手が肉体だけでなく、
相手が「たましい」であることが

わかるようになるから。
たましい同士で触れ合えるようになって、
相手と自分が同じたましいであることが
わかるようになるから。


「好きになること」を
制限しようとしなくていいんだよ。

 


そうして
僕たちの世界はひとつになっていく。

本当にひとつになっていく。

 

 

 

 

アラフィフ(っていうか50過ぎ)のおっさんゲイです。

 

一年前に放送されていた

「おっさんずラブ」

いまさら見た(^^)

 

リアルタイムで見ていなかった理由は、

前宣伝を聞いて、

「どーせまた、同性愛を、ものめずらしげに扱うんでしょ」

としか思えなかったので(^^)

(先入観バリバリ(笑))

 

 

 

んで、

実際に見てみて・・・・

 

 

 

御多分にもれず(笑)

チョ~~~~感動感激!!!した。

 

 

ストーリー展開的には

「いや、こんなん、どー考えてもありえんやろ」と冷静に思うのだが、

それ以上に、

それをはるかに上回る、

脚本

演出

表現

演技

のすばらしさ。

すばらしさ。

 

 

 

ゲイであるということで

30年以上、ずっと抱え込んでいた「古傷」が

なんか、癒された気がしたよ。

 

すっごく大げさな言い方をしているのは百も承知だが、

まじで、

何度、号泣したことか。

 

号泣したのは、

牧と春田とのやりとりをみていて、

部長と春田とのやりとりをみていて、

何度も何度も、

過去の自分がよみがえってきたから。

過去の自分の思いが呼び起こされたから。

そして、ずっと抱えていた肩の重荷が

急に、すっと軽くなったように感じたから。

 

 

 

「春田さんは、本当に俺でいいんですか?」

 

「は、なにが?」

 

「相手が、俺で」

 

「いいよ、それは」

 

 

ここで(このやりとりをみている)自分に

強烈なフラッシュバック・・・・

20歳のときの自分がよみがえり・・・・

嗚咽が、

もう、

止まらない止まらない・・・・

 

 

俺は

「いいよ」

とは言ってもらえなかったけど

(でも、決して拒否られたわけでもなかったけど)。

 

この場面で、

「いいよ、それは」

と応えてくれて

春田(圭さん)、

ホントにありがとう。

応えるようにしてくれて

脚本家さん、

ホントにありがとう。

 

「ありがとう~~~!!!」

と、チョ~~~叫びたかったよ(笑)

 

自分の過去の体験が、

書き換えられたような心地がしたよ。

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

2018年の連ドラ版をみたあとに、

2016年の「おっさんずラブ」単発ドラマ版をみて、

その違いに、驚いた。

驚いた。

 

驚いたあとに、

「いや、これが、これまでの【フツーの】日本のドラマだ」

と思い直した。

男性同士の恋愛を描くときに
「ありがち」な描かれ方。

 

「春田」がまったく違う。

同じく田中圭さんが演じているのに、

まったくまったく違う

(と、自分には感じられた)。

 

(連ドラ版の「春田」を深化させるに至った経緯を

 どっかで圭さん自身が語ってましたよね。)

 

 

2016年版をみていて、

僕は、「古い傷口に塩をぬられるような」痛みを、三回、感じた。
(制作者にまったく悪意のないことは重々承知。)

(単に「俺の主観的な感覚」です。)

 

2018年版では、

それが、

一回もなかった。

 

 

2016年版では、

「すっげえ裏切られた気分だわ!」に対して、

「そんなふうに言わなくてもいいじゃないですか」

だけでやりとりは終わる。

ハセの傷つき=視聴者である俺の傷つきである。

その傷つきは、放置され、回収し切れぬまま終わる。

「ああ、やはり、このように拒絶されるものなのだ」と、

そう思ってしまう自分。

 

傷が疼く、疼く。

痛い。

 

 

2018年版では、

同じく「裏切られた気分だわ!」と言い放った春田に対して

(言い方のトーンも、2016年版とはかなり異なる)

ちずが間髪入れずに歩み寄り、勢いよくビンタを入れる。

「最低!」と。

ちずの強い思い(怒り)が伝わってくる。
「相手を思いやれないあんたに、一緒に暮らす資格なんてないよ。」

ちずが、

俺の思いを、代弁してくれている。

(涙)(涙)(涙)

春田にもその言葉は響く、響く。

響く。

 

 

 

ここの

 

このやりとりの違いは、大きい。

 

あまりにも大きい。

 

 

もう一回言う。

 

あまりにも大きい。

 

 

 

視聴者を傷つけない。

傷ついた視聴者を放置したりはしない。

 

 

 

もちろん、

製作者・役者たちは、

「(当事者の)視聴者を傷つけないように」

と思って作っているわけではないだろう。

そうではなく、

制作者・役者たちが、

このドラマを通して

なにを表現しようと思っているかという

その強い思い、

根本にある姿勢、

基盤にある考え方(哲学みたいなもの)が、

自然と、

そのような流れを

(次元の異なる、こまやかな(粗さの少ない)流れを)

生み出すのだろう。

 

 

 ~ ~ ~ ~ ~

 

 

書きたいことは、

まだまだ山のように山のようにあるのだけど(笑)

第一回目は

こんなもんで(^^)

 

 

どうもありがとう。

 

 

平太