私と兄弟は常にドキドキしながら眠っていた。否、眠っているふりをしていた。

小学校低学年のある晩、いつものように父親が母親を激しく折檻していた。しばらく音が止んだのちに母がこういう声が障子越しに聞こえてきた。

「長い間、お世話になりました。この家を出て行きます」と。自分は布団にくるまって「あぁ・・・お母さんいなくなるんだ」と思った。事態は飲みこめたのだが、修羅場に出て行く勇気はなかった。

しばらく言い合いが続いたあとに、現場から再びけたたましい物音が続いた。無数の食器が割れる音がして、実際には10秒ほどで止んだはずなのだが、それは自分には一分間くらい続いたような気がした。と、同時に自分と同じように寝たふりをしていたに違いない、まだ幼い兄弟が大声で「ママー!ママー!」と叫んでいた。

音が止んだら次は不気味な静寂が訪れて、やがて母の「・・・痛い・・・痛い」という絞り出るような小さい声が聞こえてきた。父親は病院に電話しているようだった。すぐに救急車がやってきて、ようやく自分と兄弟は修羅場の後に出て行くことが出来た。

割れた食器と壊れたテーブルでメチャメチャになった惨事の痕には母が残していったおびただしい血が流れていた。正直言って、自分はその時「父が母を殺したんだ・・・」とまで覚悟した。

父親に連れられて病院に行くと、血だらけの母は無事に生きていてほっとした。

おおげさに言うと、これが自分の幼い頃の日常風景だった。心の底で「いつか怒り狂った父親が母親を殺してしまうのでは?」と本気で怖れ、心配していた。

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父は遠い田舎から出て来た農家の次男坊であり、人に頭を下げることが嫌いで、事業を起こして会社の社長に収まっていた人物だった。

父はとても単純で、しかし一面ではとても複雑な人だった。普段はとても人懐っこい笑顔を見せて、親戚や近所づきあいの席では常に冗談を言って豪快に笑って盛り上げる人だったが、反面、会社の部下や家の中の人間にとってはいつ爆発するかわからない時限爆弾のような男だった。遊び好きでもあったが、反面、他人には地道な努力を強要するような勝手さもあった。

父はコンプレックスの塊だったが、そのルーツは中学校卒業、高校進学間際に実父(=オペラの祖父w)を亡くしてしまい、経済的な事情で高校進学を断念したところまでさかのぼる。だからちょっとでも「自分より上」と見たら全部受け入れて崇拝するか、あるいは全部認められずに敵視するかの二拓しかなく、「自分より下」と見たら罵声を浴びせながら支配しにかかるような接し方しかできなかった。

ただし----

幼い自分にとっては、怒ると人前でもひっぱたく怖さもあったが、おおむね良い父である顔の方が多かったような気がする。自分が行きたいと言ったところには大抵連れて行ってくれたし、休日には野球や空手を教えてくれた。空手は興味が薄かったので大して身につかなかったのだが、野球は生涯を通じて自分の趣味になっている。母親に理不尽な暴力さえ振るわなければ、幼い頃の自分には理想的な父親だったし、野球の練習を終えた後に一緒にお風呂に入ったときにタオルで体を拭いてくれた暖かい手からはしっかりと愛情を信じることができた。

だが、こちらに大小の知恵がついてくると、父親の人間的欠陥が目につくようになり、憧憬はやがて反発へと変わるようになる。

「なんでも自分が一番でないと気が済まない」という父の根深いコンプレックスは、次第に自分、そして自分や兄弟が父親よりも母親を信頼していることに対して向けられ、刺激されるようになっていく。