をしました。
私はずっと祈ってきたことがあった。
ずっと、ずっと、ずっと。
けれど、
私の思いと主の思いは違うことが分かった。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたに道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ書55章8節―9節)
今までの私なら諦めがつかず
自分の力でなんとか自分の思いを
突き進んだかもしれない
今はその時ではないと
今はまだ早い、待ちかもしれない。
必死に計画を立てたりしたかもしれない。
しかし、ようやく気付いた
主の道ではなかった事に。
これを認めるにはとても長かった
ずっと祈ってきたことだったし
祈りは聞かれるって信仰が強かったから
それ故に頑固になってしまっていた
今日は朝から号泣してしまった
主の道に心を合わせるのが
私の最大の幸せなのは分かっている
だから
あなたの道以外扉を閉ざしてください
しかし、主の道であれば
扉を開いて誰も閉ざさないようにして下さい
という祈りもしていた。
だから、見えない信仰によって
従順によって諦めるという選択をした
はぁぁぁぁ
長い長い刈り取りが終わった。
本当に長かった、縛りから解放された。
そんな感覚があった
ダビデも主の僕で、主に愛されていた僕だったが罪の刈り取りはとても大きかったと思う
今日はその箇所を示された
だからこれは、正直過去の自分が蒔いた罪の刈り取りだったと思う。過去数年間、とてつもない苦痛を伴った。
私が罪の中にいたのは、私の責任だけど、でも私は主に愛された者だったから、愛されてる故に主は私を放置せず、救い出すため挫折と苦痛という出来事を起こされてくれたんだと思う
この世では私は惨めだけど
主に愛されてると思うと安心する
クリスチャンになって洗礼受けて変わっていく自分にようやく最近気付いてたけど、主に請願を立てて必死に祈ってた事だったから私は行動を持って信仰を持って進んだ。
けれど、主が道を閉ざされた。
もしかしたら、悪魔が道を閉ざしてるのかも?なんて思いすら湧いてこなくて、この道では無かったと確信した。
今日は悲しみと苦しみで涙が止まらなかったけど、それでも私が信じてる主は良いお父さんである事は変わりない。
天の父は、愛する子に良いものを与えないはずがないと聖書に書いてある。
だから、必死に祈ってたこの事は主の道ではなかったと知った。
たとえ辛いことがあっても、その辛さを上回るほどの祝福を用意しておられる。
私の考えは主の考えに比べて
はるかに小さかった。
イエスキリストにだけ目を向けて、集中しよう。祝福はすぐそこにあるのだから、信じて受け取れるように清さを保ち、祈りと共に平安の中に留まろう。