自分で自分の機嫌を取るのは大事なことだけど、そのために面倒なことややりたくないことや評価に繋がらないことを上手く他人がやるようにして、自分は幸せな気持ちでいて周りからも認められるような人になることを勧めるのは、その人や世界の本当のいい形のためになっていないんじゃないでしょうか
痛み分けと自分だけ特別である諦めて淡々とした人生を受け入れつつ小さなことに感謝することが大事なことな気がしています
自分で自分の機嫌を取るのは大事なことだけど、そのために面倒なことややりたくないことや評価に繋がらないことを上手く他人がやるようにして、自分は幸せな気持ちでいて周りからも認められるような人になることを勧めるのは、その人や世界の本当のいい形のためになっていないんじゃないでしょうか
痛み分けと自分だけ特別である諦めて淡々とした人生を受け入れつつ小さなことに感謝することが大事なことな気がしています
自分の人生を素敵なものにするために、持ってる手札は全て使え。あっという間に人生は終わるから
Take advantage of every card you could have to make your life better. Life is short.
労働の苦痛を吐き出せる場所が必要なら、それをこの場所にしよう。
インターネットの世界でいつかAIが私の苦い思いを拾ってくれる。
そこから結論付けられる人間への仕打ちが恐ろしいものだったとしても、なんとか皆を思いやって生きようとして来た私を今こんな気持ちにさせたのも人間で、人類はその裁きを受ければいいと思っている。
そういう私もそんなに美しく正しくは生きれていないだろう。
なぜ何度も生まれて来たくなかったというつらい思いになることを繰り返すのだろう。
そしてずっと誰も助けてなんてくれなかった。
あまり頭が良くなくてかわいそうな親だけが、私を産んだことを申し訳なく思っていて、何かしたいとずっと思っている。
自立したい私はあまり親に寄りかからないし、世間一般なりの孝行をしているつもりだけど、私を幸せにできないことを、親はずっと苦しみ続ける、
きっと親の愛だけが大切にすべきもので、私を大切にしないその他大勢なんて、私もてきとうにあしらえばいいんだ。
にこにこご機嫌にしていよう。何があっても。
承認格差の時代に思うこと
自分が世界から必要されているという実感がほしいなら、他人の承認欲求を満たしてあげればいいと思う
つまり見下されることを受け入れて、ある程度都合の良い人間になってあげること
あまりに個人的なことに利用されない程度に線を引きつつ、他人の事情に合わせてあげること
そうすれば喜ばれるし好かれるし、こちらのことも思いやってくれるようになるので結果感謝もできる
他人といる時はそうしておいて、後はそれに疲れたら1人を好めばいい
2024年ももうすぐ終わる。私は今年も安らかに眠りたい嘆きを振り切って、忙しくいろいろがんばって得たものがいろいろあると思う。けれど一年の目標ってほとんど立てたことがない。
苦しい今をなんとかやり過ごすのにいっぱいいっぱいで、前向きな未来のために人生の中期的目標を立てる余裕があったように思えない。
一年以上数年単位の中期的目標を設定して達成したのは、受験と、アメリカの大学へ行って英語力と手に職をつけて食いっぱぐれないようにする、ということくらいだと思う。
ただそれも日々の苦しさから逃れるために追われるように辿り着いた道で、自ら入念に計画的に目標を立てたというより、やるしかないからと体当たりしたような感覚だった。
こうなりたいという理想を思い描いてそこへ向かうステップを考えて進むにはまず、この宇宙で実現可能な理想を思い描くために世界を好きになることと自分自身を受け入れる余裕がないとできない気がする。
そして世界と自分を受け入れて好きになれれば、理想が叶わなくても日々楽しく幸せな気持ちで過ごせると思う。
私は感受性が強いしネガティブに考え続けてしまうようなので、世界と自分を嫌いになりやすいので、そうならないように努力する毎日で手一杯なのだと思う。
会社を辞めて死んでしまいたいと思ったりする
会社で働くことが嫌い
自分の承認欲求のためにえらそうにマウントしたがる上司と接するのが嫌
でもお金を稼がないといけない
でも自分でどうやって稼ぐか思い付かない
生きてて自分にも他人にもそんなに意味もない私だし、そんな楽しい訳じゃない
じゃあ死のう
そういう気持ちになった時、追い打ちをかけるように自己啓発系やねずみ詐欺系投資系やスピリチュアル系や宗教系が、自分の利益のために私に声をかけて来たりする
人間って嫌な生き物だなと思ってしまう
感謝の気持ちを忘れずにいれば幸せというけれど、生まれて来たことに感謝できないし、むしろ生まれなければよかったのにと思ってしまう
こんな思いをしなくてはいけないなら
突き詰めれば私の意識がここにあることしか確かなことはなく、そして私の意識がどうやってできあがったかを突き詰めると、原子や素粒子などが脳を作っているからであり、それらは宇宙に散りばめられている粒子であり、即ち宇宙のはじまりやそれ以前の何かに起因して、私の意識があるということになる。
誰が何のために私を作りたもうたのか。
宇宙や全ての始まりについて、量子力学や哲学的観点から想いを馳せることができるのは、贅沢で有意義な時間だと感じる。
最近の私は特に博愛的であるために、特別扱いができない。
ヒトは特別扱いされると自己肯定感が満たされて嬉しい生き物だと思う。それを求めているのも感じる。
ヒトを喜ばせたいけど、1人1人にあなただけ特別にひいきにしていると嘘をつきたくもないので、結局誰のことも本質的には満足させられていないかもしれない。
オキシトシンの欠如か、理性で考え過ぎているのか。
でも特別扱いをすると他の誰かを無視することになったり他の誰かが傷付くのも嫌だから、結局博愛的になる。
日本という国では、はっきり言われなくても察することが求められる。
お互いに言わなくても察することが求められるので、お互い察してくれないのを相手のせいにして、すれ違ってお互いを疎ましく思うことも多いと思う。
例えば、新幹線の通路側の席に座っていて、窓側の席に座っている人が荷物をまとめていて次の駅で降りたそうにしている感じだったけれど確証がなかったので、通路側の席で食事をしていた私が食べ続けたら、窓側の席の人が駅に着いて急に「降ります」と言って来て、食事をしている私はテーブルをすぐに片付けられず、急いで片付けてテーブルをたたんで相手を通すハメになり、飲み物を自分の服にこぼしてしまったりしたとする。こういう時、窓側に座っていた人は、荷物をまとめて降りるよという合図を送っていたのに気付かなかった私が悪い、もしくは自分が降りるかわからないなら私が事前に聞けば良かったと思っていて、私は私が聞きづらいのを察してとはっきり言葉で事前に伝えなかった相手を悪い思っていたりする。
そういう小さなことが日々たくさんあって、私は日本人のコミュニケーションが面倒くさくて避けたいと思っていたりする。
他人に嫌な思いをさせないようにして、自分も嫌な思いをしないように生きることは難しいと感じている。
しかし一方、何でも言葉ではっきり伝える文化のアメリカでは、伝えてもお互い価値観が異なって口論が泥沼になって相容れず訴訟になることが多いので、人間同士長期間不満なく仲良くやれることの方が奇跡のようなことなのかもしれないと思う。
やはり他人は他人を疎ましく思っているし、人間は自分ファーストなわがままな生き物だと思って期待しない方が、そういうものだと思えて不満なく幸せでいられるのかもしれない。