226事件が読み解けると、

すべてのことが分かる、見えてくる、

そんな気がしてきてしまう。




… な、訳、ないじゃん。




けれども、いろいろなことが

繋がっている。 繋がってくる。



… そんな気が、してきます。




226事件がいよいよ起こされようとする時、



実際、

1936年 ( 昭和11年 )  2月26日


蹶起するにあたり、


「時期尚早である」と、


そう考えていた青年将校たちも、

いました。



けれども、そうした青年将校たちが所属する

第一師団が満州に派遣されることが決定すると、



「時期尚早」と考えていた青年将校たちをも、

蹶起に踏み切らせる、引き金となりました。



青年将校の思想的、心情的、

理論の主柱だった、北一輝、西田税も、

最後の最後まで、蹶起には反対していました。


それを受けてか、

安藤輝三大尉も最後の最後まで、

蹶起を渋りました。



その安藤輝三大尉を叱咤したのが、

野中四郎大尉、でした。


今、決断しなければ、

「かえって、我々に天誅がくだるだろう」



野中四郎大尉は、蹶起を相談する会合には、

顔を出したことはなく、

専ら、勤務に熱心で、

実直、生真面目な人柄、でした。


そんな野中四郎大尉が、

「何故断った。蹶起しようではないか」と

会合で、蹶起に後ろ向きな態度を示して、

宿舎に帰ってきた、安藤輝三大尉を

叱責したのでした。



蹶起趣意書は、

そうした野中四郎大尉が代表者として、

認められたもの、です。


 野中四郎大尉が書き上げたものを、

大幅に、北一輝が修正をし、

上官に当たる、山下奉文少将、などが目を通し、

無言で数箇所、筆を入れた、そうです。



そうした逸話を少し紐解いただけでも、

226事件の、表面を見ただけでは、

決して、何も見えてこないし、分からない。


そうした226事件の側面を、

少しでも、ご理解、頂けるのでは、

ないでしょうか。






 ※  追記            2024.7.24 )


野中四郎大尉が書き上げたものを、

大幅に、北一輝が修正をし、…



上記の文は、Wikipedia を参照して書きましたが、




村中孝次大尉の書き記した『丹心録』より


「本趣意書は二月二十四日、北一輝宅の仏間、明治大帝の御尊像の御前に於て神仏照覧 の下に、余の起草せるもの、或いは不文にして意を尽くさずと雖も、一貫せる大精神に於ては天地神冥を欺かざる同志一同の至誠衷情の流露なるを信ず」


本趣意書 =  「蹶起趣意書」のこと




… とありました。


それによると、


蹶起青年将校の総意が、天を前にして、

その至誠が通じるようにと、

その思いを、昇華、結晶化させられるようにと、

村中孝次大尉が書いたもの、とのこと、です。


それには、野中四郎大尉がニ月十九日、

蹶起前に書いた「遺書」がベース、

基礎、骨子になっている。


なので、署名が、


陸軍歩兵大尉   野中四郎

外 同志一同


… なのですね。




(  続く…  )