さて、発禁本です。

発禁本の中身を紹介することが良いのかどうか。という逡巡はありますが……。

今の時代だからこそぜひともご紹介しておきたいと思いますのでこの機会に。

 

たまたま著者が某団体主催の懇親会で私と同じテーブルになったことで知り合いました。

この本も、「発禁になっちゃいまして」と笑顔で自己紹介のような感じで渡されました。

面白い方なんですが、思想がヤバい。

 

どうヤバいのかいうと

・生きていると害をなす確率が高い人物は早めに殺処分すべき

という思想で貫かれた本なのです。

 

一殺多生

井上日召の血盟団事件を彷彿とさせます。(注:血盟団は担当検事が勝手につけた名前)

 

現行の政治経済の制度組織が「間違っているから正さなければならない」と考えた時に、

一般人なら選挙制度などの「現行制度」を活用して政治改革を目指すでしょう。

中世の民衆なら、選挙などの「現行制度自体がおかしい!」と武装革命、ですね。

血盟団も「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」を暗殺

すれば速やかに世の中が良くなるはずだ、と考えたようです。

 

何の権力も持たないただの一般人である「自分」であっても、政治経済の制度組織上で

「我欲我心」で権力を弄ぶヤカラを殺せば、世直しができる!

 

単純と言えば単純。純粋と言えば純粋。

そして、「簡単」と言えば「簡単」なのですね、厄介なことに。

 

著者の伊賀氏はわかりやすい例として、

「暴れん坊将軍は悪を『成敗!』することで秩序と平和と公平を守っている」

など、いくつかの時代劇や芝居の話をあげています。

 

純粋と言えば(ry

 

さて、この本が発禁になった理由は、このようなヤバい思想を根拠に、「実在の人物」を

列記していたからです。

元総理大臣やら各界のドンと呼ばれる方やら……。

 

しかも「刑務所に入りたかった」とか「誰でもよかった」とか供述する殺人犯に対し、列記

した人物をあげて、「誰でもいいならこいつらを殺せ」と殺人教唆まがいの記述をしておる

のですから、発禁となっても仕方ないでしょう。

(よくこんな内容で本になったなと思いましたら裏がありましたが割愛)

 

ただ、伊賀氏は一点だけ、激しい口調で禁じていることがあります。

「無差別テロルはテロルではない。ただの愉快犯による殺人である」

 

ここで伊賀氏は予言します。

「今再び、テロルの時代が来ている」と。

そして標題に戻りますが、

「現在の法制度では殺してでも生き残った者が勝ち」

ということのようです。

 

さて、予言は当たりますでしょうか。

今回は絶版本です。

というより、元々自費出版本だったのですが、内容が内容だっただけに右翼と左翼の

両方から出版社に抗議があり、回収して原版を破棄したということです。

 

問題となったのはこのブログの表題にもある「旧日本軍とは日本朝鮮連合軍だった」、

という記述です。

 

右翼系の方からは「皇軍を侮辱するのか」という精神論的抗議。

左翼系の方からは「戦争責任を誤魔化すつもりか」という政治的抗議。

 

抗議は来るだろうな、という気は傍目からもしますが、山本氏は抗議に来る方に対して

いつも落ち着いて答えたそうです。

全体の三割を朝鮮人が占めていた日本軍は「国籍ではなく民族という視点」で見れば

「日本朝鮮連合軍」以外の何物でもないことは歴史的事実である、と。

 

慰安婦についても「朝鮮人慰安婦というのは不思議な区分であり、慰安婦の方の権利を

回復したいのならば大半を占める日本人慰安婦を抜いて語ってはいけない」と。

 

「旧日本兵の蛮行」とは「日本朝鮮人合軍の兵士の蛮行」であり、その時だけ朝鮮という

単語を抜くのは国際的誤解を生む不適切な表現、だそうです。

 

山本氏は書き連ねています。

・朝鮮人が建国した大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も第二次大戦の敗戦国

・慰安婦に基金を作るのならその大半は比率的に日本人慰安婦向け

・日本政府と韓国政府と北朝鮮政府は戦争責任を同等に反省しなくてはならない

 

頼った国が戦争に負けそうだとみると裏切って、「もともと反対勢力だから戦勝国側だ」

と言いだすのはムッソリーニを吊るしたイタリア人の一部勢力と同じです。

自由フランスが戦勝国側だと言っているのとは訳が違います。

 

<本文より引用>

朝鮮人とイタリア人で自分たちが戦勝国だと言っている勢力は人類の敵です。

戦争責任を放棄して甘い汁だけ吸おうとしている卑怯者なのです。

かような卑怯者は次また、戦争を引き起こす可能性があります。

真摯に反省していないのですから。

<引用終わり>

 

今の右翼も左翼も旧日本軍を「日本朝鮮連合軍」と言い換えたくはないでしょう。

でも、もし国連の資料を含めたすべての記述を「日本朝鮮連合軍」と書き換えてみると

歴史の真実が見えるのかもしれませんね。

著者の斎内氏は日中国交が回復してすぐの時代から仕事で大陸に赴き、様々な経験を

なされた方です。

父親が満州で事業をしていて、現地の有力者との親交も厚かったため、国交が回復した

と同時に大陸へ呼ばれるほどだったということです。

ただ当時の中国は、

・人民服姿が主流

・金持ちは自転車を所有

・トイレは掘っ立て小屋に溝が掘ってあるだけの丸見えスペース

・「床屋」といえば売春宿(国として認めていなかったがどこでも役人と結託して営業可能)

・商売を始める時は地元の有力者(交渉中は机に銃を置いているのが普通)と折衝

・有力者というのが行く度に変わる輪番賄賂制

という時代だったとのことです。

ただ、誰もが笑顔だったとのこと。国民の思考が前向きだったのでしょうか。

文化大革命があったとはいえ。

 

そんな斎内さんが驚いたのは、日本企業がこぞって中国を市場ととらえ始めた流れだった

とのことです。

 

中国が市場になるわけがなかったから、というのが理由です。

 

実は日本以外にも様々な国が中国に進出しました。

理由1:人件費が滅茶苦茶安い

理由2:購入人口が滅茶苦茶多い

 

ところが、このどちらもタクラマカン砂漠の蜃気楼でした。

人件費の高騰は当初から予測されていましたが、市場規模の大きさというのまで蜃気楼

だったことには各国のエリートたちも気づかなかったのです。

 

まず、生産について斎内氏の知り得たことをまとめてみましょう。

人件費については上記の通りですので、品質面について。

 

海外企業は中国でモノを生産するにあたり、その品質の確保を早急に進めるため、技術

やノウハウをシステム的に与えることが出来るISO規格に注目しました。

著者の斎内氏ご自身もISO内部監査員の資格保持者だということです。

しっかり学べば講習でどなたでも資格を得ることが出来ますのでチャレンジしてみるのも

よいかもしれません。

 

ISOについて詳しくは書きませんが、要は生産ノウハウ等をマニュアル書面化し、この生産

方法で作れば期待された品質のモノが完成する、という理屈です。

(日本のJISとは根本的立ち位置が違いますね)

 

ISO自体は素晴らしいシステムですが、この唯一で最大の欠点は「監査が的確に行われる

ことが前提」であることです。

監査が的確だからこそシステムは正常に機能し、生産物は品質を保持できるのです。

 

ところが中国ではこのシステムが根本的に機能しませんでした。

監査員が買収されるからです。

どんなシステムがあってもそれに従わずに楽な生産をするために監査員を買収する。

この発想が中国なのです。(強さでもありますが)

 

斎内氏はその実態と役人までそれを黙認している事実に、中国国内で生産されている各国

企業のモノは「品質とかいう以前のシロモノ」ということを知りました。

それが中国なのですから、改善などされるわけがありません。

改善できるのなら、そこは中国ではありません。(斎内氏の言葉)

そしてこの状況は、2018年現在でも続いております。

 

このほかに中国国内の法整備についても書かれております。

また触れる機会があれば書評に取り上げてみたいと思います。

「差別撤廃」「学問の自由」「教育の自由」「子供には罪がない」

 

などというお話とは全く違う視点です。

心理学というほど恐れ多いものではなく、「ふと感じる嫌悪感」に近いものでしょう。

 

松本智津夫なるのちの死刑囚がまだ若いころ、1980年代でしたか、修行をしている姿を

見て、真面目にヨガを研究しているな、と思いましたが、どこからずれていったのか。

あばら骨が浮く細さでしたから断食などもしていたのでしょう。もともとガタイはデカい部類

だったらしいですからね。ただ丸顔のところだけは同じでした。

一緒にヨガで真理を探求すると言っている若者(少年?)がいましたが、彼がのちの弟子

のひとりだったのでしょうか。顔が思い出せません。彼も痩せこけていました。

水中ヨガはしていましたが、のちの彼の代名詞となる空中浮揚は見ていません。

あの胡坐ジャンプはデブではできない運動です。

田舎のヨガ道場のおやじで人生を終えるには野望がデカすぎたのでしょうか。

 

そしてああいう勘違いをして尊師と呼ばれ、人殺しまで加担するようになったわけですが、

まだ今でも彼を尊師として慕っている人、そしてグループが存在します。

世間が彼らを見る目は当然厳しくなります。拒絶反応が出ます。なぜなら、

「また同じ犯罪を繰り返すのでは?」

と思うからです。

根拠があるとかないとかの次元ではなく、「心理的既存性」ですからどうしようもありません。

「尊師なる者の肖像を部屋に飾っている、飾っていなくても大切にしている」

この事実が彼らに対する拒絶を生むわけです。

 

ネオナチでも同じでしょう。「また同じ虐殺を繰り返すのでは?」と。

 

天皇制や陛下のお姿だけで拒絶する方がいますが類似の「心理的既存性」です。

 

さて、今回のテーマに戻ります。

ここまでの流れでもうおわかりでしょう。

「金日成、金正日、金正恩の肖像を飾る、飾らなくても大切にする」

この事実が、

「また拉致事件等を起こすのでは?」という猜疑を呼び起こすのです。

 

自由とか平等とかのありがたいお題目は「心理的既存性」に対しては無意味です。

つまり、

「朝鮮学校及びその生徒への視線」は「尊師を慕い続ける閉鎖的宗教集団への視線」と

心理的既存性において同じなのです。

 

朝鮮学校の生徒たちが一般的日本人と同じ視線で見てもらう条件は、オウム真理教の

流れをくむ宗教集団が一般的宗教団体と同じ視線で見てもらう条件に類似しています。

 

法律上とか人道上とかそういう崇高なお題目は、人間の心理の前では無力なのです。

人間は最後は、心で動きますし、ね。

 

さて、あなたの心はどう動きますか?

また佐藤氏の本ですね。お世話になります。

入手できるうちに佐藤図書館ができるくらい著作物を買い集めさせていただきました。

どの本も今ではほとんど手に入らないとご息女からお聞きしました。

出版業界は、専門書などの儲けのとれない分野から断裁絶版していくのでしょう。

取次含めて、出版関連業界にて、潰れるところはまだまだ増えそうです。

 

さて、本日の話題は北方領土。

ロシアの外相が「戦争の結果だろ、認めろ」という内容の発言をなさいました。

腹が立ちますが「正論」です。

 

敗戦により、日本の領土は小さく限定されました。

まずはポツダム宣言(1945・7)を見れば、

・北海道と本州と四国と九州

・そのほかの島で連合国が日本国領土と認めたもの

・カイロ宣言(1943・11)を遵守すること

などとあります。まあ、曖昧に書いておけば後で何とでも調整できる、ということです。

次にこの遵守しなくちゃいけないカイロ宣言が重要なわけで、一部を引用するとそこには、

・1914年の第一次世界戦争の開始以後に 於て日本国が奪取し又は占領したる太平洋に

於ける一切の島嶼を剥奪する こと並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗

取したる一切の 地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本

国 の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし 云々

と書かれております。

要は、1914年の後から増やした領土は認めんぞ、ということですね。

 

カイロ宣言だけ読んで理屈をこねれば、その時点までに日本の主権が及んでいた地域は

日本固有の領土、ということです。

北方領土も、尖閣諸島も、竹島も、当然日本の固有の領土です。

ただ問題なのは、このカイロ宣言も実に曖昧な書き方だということです。

 

思い出してください。ポツダム宣言には「連合国が認めたもの」という文言があるのですよ。

そこでちゃぶ台返しが可能なわけです。

ちなみに連合国は中華民国、今の台湾行政府です。中華人民共和国に飲み込まれそうで

心配ですが。このお二方、成り立ちも日中戦争での立ち位置も違いますからね。この先、

どうなるんでしょうかね。(と言いつつ次の書評への前振り?)

 

一方、戦後日本は日本領土の回復を念頭に、戦勝国なるモノへ幾度も領土に関する主張

を繰り返して来ましたのは御存じの通り。その要点は、

・平和的に取り交わされた条約は有効でしょ(日露和親条約、千島樺太交換条約ほか)

という、暴力及貪欲に依り略取したものじゃないんだから返せ、という理論です。

この理論で行けば、千島列島丸ごと返せ、と言ってもいいでしょうね。

 

でも帰ってこない。

ポツダム宣言における連合国(のうちのソ連、今のロシア)が認めないから。

 

アメリカが後で後悔してあれは条約じゃないと言い放ったヤルタ協定とか、千島列島への

主権主張を放棄すると書かれたサンフランシスコ平和条約(別称)とか、面倒臭いものは

数々ありますが、早い話が「連合国が認めない島は日本の領土じゃない」ということです。

それがこの本の骨子です。

 

つまり、どんなに正当な理屈があろうとも、戦争に負けた時点で上記の曖昧な各条約に

基づき、北方領土はロシアの主権下、ということですね。腹立たしいですが。

 

北方領土もシベリア抑留も、道理をひっくり返しての「勝てば官軍負ければ賊軍」です。

これが国際政治です。腹立たしいですが。

 

ですので、北方領土(千島列島含む)を正常な状態にするには、次の戦争で、

・ロシアに勝つ

・ロシアの味方になるときに上記領土の回復を認めさせる

のどちらかしかない、というのが佐藤氏のブラックユーモア入り結論です。

これに中華人民共和国が絡んできますので複雑怪奇ですね。

数年以内に大きな動きがあるかもしれませんが。

まず、神事とは何か。

一神教では絶対的神様が一柱だけおわすので分かりやすいですが、八百万の神様となる

と「神事」の「神」がどの神なのかわからなくなる。

元々は豊穣の神だったのかもしれないものの、豊穣の神も一人でないとなると大変だ。

なので日本では、大勢おわす神様と人間のインターフェースを一本化し、天皇という祭司を

定め、今の世に宮中祭祀に大祭と小祭が残っている。

後付けですがね、ないよりまし。

 

相撲は大祭でも小祭でもない。陛下の大相撲観戦は私的行為でしかない。

日本の神事を束ねる陛下が正式な宮廷祭祀と認めていない癖に「神事」と名乗るとはこれ、

不逞の極みであろう。

日本相撲協会とは国賊集団であるのか?

という難癖まがいは置いておいて。

 

村の鎮守の神様に奉納する相撲は「神事」だ。まあいろいろ問題はあるけれども、だ。

でも、日本相撲協会は違う。奴らはなにをもって「神事」と偽るのか。

定款第三条の「太古の神事を起源とするから」が理由だそうだ。

そういう解釈なら、村祭りだって盆踊りと同等の存在、という位置づけとなる。

 

この程度の係りなのになぜ、日本相撲協会は「神事」という看板を前面に出しているのか。

答えは簡単、巨額の金が動くからだ。

今のご時世、公然と巨額の金を動かすには、「お題目」が必要なのだ。

遥か昔より、相撲は「神事」の皮をかぶった「興行」になっている。

「興行」の唯一の目的は「胴元が儲ける」ことだ。慈善事業ではない。

もし、相撲が本当に「神事」なら、日本相撲協会は宗教法人であるべきだ。

 

日本相撲協会は多額の金が動く日本最大級の興業の胴元でしかない。

二度と「神事」などと口にしないでいただきたい。

八百万の神々も迷惑だろう。

まあ、日本相撲協会の周囲に集るダニたちはおこぼれが減ると困るので必死だが。

 

相撲という競技自体は面白いから、余計に残念だ。

それに最近は「ゲスな手」が主流になっているので名勝負が減ってきて悲しい。

サポーターを固めて攻撃力を増すなど、悪役の手口じゃないかね。

閑話休題。

 

今後、「神事」だと言い張りたいのなら次のことが最低限必要だ。

「神様の明確化」である。

当然、日本相撲協会は宗教法人化が望ましい。

力士や職員など関係者すべては日本の神道(新しい「相撲派」になるのか?)に帰依する

必要があろう。

 

だから日本相撲協会は「神事」とか曖昧なことは口にしないほうがいい。

「スポーツ興行」でいいじゃないか。

 

それでも「神事」というのなら……。

少なくとも、一神教(日本の八百万の神々を否定する宗教)が組織に入り込んでいるのは

マズいんじゃないかね?

宗教というのは困ったことに、「個人的に互いを認め合うこと」は出来ても、「教義としての

一本化は不可能」なのだ。

八百万の神々のどなたか様に奉納する「神事」が相撲なら、八百万の神様そのものを否

定している一神教はいかんでしょ。

 

逆に、明治神宮での横綱奉納土俵入りは宗教差別的には問題ないのかね。

大正七年の明治神宮外苑での地鎮祭に地固相撲をしたことから始まっているらしいが、

相撲が宗教的に平等なモノなら、仏教寺やイスラム寺院やキリスト教会やその他諸々の

宗教施設の前でも奉納しなさいよ。差を付けたらイカンでしょ。

 

都合のいいところで「神事」の意味を使い分ける卑劣さは唾棄すべきだ。

 

改革の方法はある。

言葉にすると簡単だが実際は無理だろう。

何せ向こうには巨額の資金があり、それに集る既得権者の群れがいる。

しかも彼らが「伝統」を守っているというむず痒いことになっているのである。

はじめに巻末履歴によると、著者は記号心理学という分野が専門の方です。

男の方で、名前は「しんり」と読むそうです。

そしてこの方の「理論」が面白いのです。いわゆる、一般常識ではありません。

言われてみると、子供の質問には、我々一般人は「情緒的」に答えてしまいがちです。

この本によるとそれは「非合理的でいけない」ということです。

 

この本には25の素朴な子供の質問が並んでいます。たとえば、

・どうして女の子にはおちんちんがついていないの?

・どうしてクジラをとると怒られるの?

・どうして戦争をするの?

などなど、我々が子供にどう答えようか戸惑う内容ばかりです。

 

そして極めつけが標題にした「人を殺してはいけない」理由です。

私なりにまとめると、答えは、

「明日になってその人がいないと困ることがあるかもしれないから」

です。なるほどです。

ですので著者は続けます。

「ずっとずっと、いなくても困らない人、いたら困る人は、殺してもいいん」と。

そして理論は死刑制度の是非につながっていきます。

そこには、

「人が人の命を裁く権利はない」とか

「人は誰も生きたいという欲求と生きる権利を持つ」とか

「人を殺すなんて残酷」とか

「神様or仏様orそのほかそういう尊い存在が許さないから」とか

そういう情緒的な思考は一切出てきません。

「権利」の主張は「感情」であり「非合理的」だと著者は言い切ります。

「明日、自分が困るからしない」という子供にもわかりやすい理論のみです。

他人の命を平気で奪う人が明日も生きていると、また次々と他の人の命も奪うかもしれま

せん。

つまり記号論では、殺人者の放置は集団における「全体数の減少」を意味するのです。

「人が個体として存続し続ける」ことが唯一の正義だとすれば、「個体の存在を支えるだけの

人数を維持しなければならない」わけで、「人数を減らす因子は排除しなければならない」と

いう論理展開ですね。

現実世界では死刑廃止による「懲役刑の活用」などもありますが、著者はこれも「非合理的」

だと言い切ります。

集団の中で得られる富は限られているのに、他人を殺す因子に自分の獲得した富を分け

与えることなど「あってはならない」というわけです。

残念ながら、殺人者が殺人を深く反省した場合については書かれていません。

もしかしたら「反省」自体を認めない(信じない)のかもしれませんが。

 

このように、25の子どもの素朴な質問に対しても「合理的」な答えを返していきます。

実際にこういう教育をすると末恐ろしい子供になりそうですが。

この本のクジラの項目も面白いので、機会があったら取り上げさせていただきたいと思い

ます。

「原初、基本的人権などない」と冒頭に書かれているのがこの著書のすべてを表現して

いるように思う。

普段、私たちは何気なく「基本的人権」「人権」「自由権」などの言葉を使ってしまうが、

それらが一体何を示しているのかを深く考えてはいない。

「人権を守れ」という言葉は「誰か」が自分たちの人権を侵害しているから発せられる言

葉のはずであろう。

この「誰か」は「他者」である。

それも「自分より上位にいる他者」である。

わかりやすいのは、「国家」であり「組織」であり「社会」である。

著者はいう、「上位にいる他者からの規制」に対抗する言葉が「人権」なのであると。

つまり、原初、上位も下位もない、生きるか死ぬかくらいしかない世界においては人は

他者から規制を受けることもなかった。

ゆえに、「人権などというものは元来存在しない」のである。

しかし人はいつしか勘違いをしてしまった。

「人権」というものは当然のようにそして超越的に存在していると。

著者はいう、「それらは幻想にすぎない」と。

「人権を守る側が正義で、規制する側が悪である」という認識こそが「甘え」なのだと。

「存在していることに甘えるな」

「正義であることに甘えるな」

何故なら現代の社会であなたの人権を保障してくれているのは、規制する側である

「国家」や「組織」や「社会」なのである、と。

少子高齢化だの、日本人が減っていくだの、当たり前である。

楽しく人生を謳歌しようとすれば、「家族」は邪魔でしかない。

それが今の日本社会である。

 

家族の否定は跡継ぎの否定につながり、当然人口減少へつながる。

これを何とかしようなどと思うことは天に唾を吐きかける行為に他ならない。

現在の流れは自然なのである。

 

このまま人口が減少すると日本人はゼロになる、というバカがいるが、実際の生物

コロニーは、数の減少が一定数を超えれば増加につながる。

そういうDNAになっているからだ。

DNAの根本が破壊されて変質していれば増えない可能性もある。

だがそんな生物になっているのなら、滅亡しても仕方ないだろう。

 

日本列島の現在の環境下での底は8000万人という研究がある。

ならば、日本政府は子育て支援もいいが、それより将来を見越し、人口8000万人で

日本国がどう生きるのか、その社会構造と産業構造をモデリングすべきである。

 

減ることの何が怖いのか?

経済が市場縮小していっても、人口も減少するのだから、それに見合う構造が構築

できていれば何の問題もないのである。

減った時に対応できない構造のまま改革が遅れることの方が怖いのだ。

 

とまあ、書いてきたが、実はこの先の考察を書物としてまとめているので先触れなの

です、申し訳ない。

8000万人体制の要(かなめ)は、農業だということはここに書いておこう。

連続9講にわたる集中講座でした。皆様、お疲れのことと思います。
それでは今までの内容を軽く振り返ってみましょう。
 
第1講 社会のない世界
第2講 個人から社会へ
第3講 組織の発生と理念
第4講 組織の分類
第5講 組織の存在意味
第6講 組織の崩壊と個人
第7講 理念の価値と選択
第8講 組織の成立
第9講 あるべき国家への道
 
繰り返して述べてまいりましたが、個人の権利も自由も義務もすべて、
人間が産み出したものであり、それ故に死という結末が存在すること、
言い換えればその組織を構成する人間が社会組織の規定を担うのだ
ということです。
何度も例として挙げてまいりましたが、基本的人権も生存権も幸福追
求権も、すべては規定されたものであり、いつでも白紙に戻る可能性
があるのです。
それを踏まえて、自分たちの生きる社会組織をいかに構築していくか
が若い皆様に課せられている運命だと認識頂けたかと思います。
 
神はいない。ただ運命の女神を除いて。
 
それでは次に会う機会がありましたらよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
 
※本講座の講義は2017年8月に実施されたものの抜粋です。
 2018年の講座を受講される方には音声データを配布しております。