ほっこりとりーと 318798

ほっこりとりーと 318798

ロンドン在住ボディーワーカー/セラピストです。 
エサレン・マッサージ、クラニオセイクラルセラピー、リンパドレナージュ、フェイシャルリフレが専門。 
セラピーと気づき系を中心に綴ります。 

 

病院に泊まりに行く時は、兄か兄嫁が車で送ってくれました。

ふたりはそのまま就寝の時間まで、母と過ごして帰るのが常でした。

兄夫婦は二世帯で住んでいるので、残された父のことを頼む、という思いもあったのでしょう、

このふたりへの話が一番多かった。

傍で話を聞きながら、しんみりとしたこの時間が、私は好きでした。

 

 

母と兄の絆は深いんだなあ、と知ったのもこの時でした。

まだ1歳ちょっとの頃に大やけどを負わせてしまったことに対する罪悪感を

ずっと引きずっていたのも知らなかったし、

赤ちゃんの頃から理不尽に父に嫌われてきた兄だったので、

よりかばう気持ちが強かったのかも知れません。

兄は母の手を握りながら嗚咽していました。

 

 

一時期は、やはり嫁姑問題もあった兄嫁。

だけど何度か、泣きながら腹を割った話し合いをしたことがあるそうです。

真っ向から向かい合ってきたふたり。

兄嫁も号泣しながら「お義母さんに会えて良かった。お義母さんのこと大好き」と伝えていました。

もしかしたら実娘の私よりも、魂のぶつかり合いをしたのかもしれない。

 

 

痩せこけて病人ぽくなってからは、

「こんな姿、見られたくない」と近所の人に会うのを避け、家の中にいた母。

だけど入院してからの面会には大喜び、「まだ帰っちゃダメ」と

来客の手を固く握って離さず、お喋りする様子を見て、

「これはひょっとしたら、あと1ヶ月くらい生きるかもしれないぞ?」

と希望を感じたものです。

 

 

けれど本人はどこかで分かっていたのでしょう。

「F先生(主治医)は週末はお休みで、回診はないんだって」と告げると、

「月曜に先生に会う時は、ベッドのリクライニングを上げてちょうだい。

寝転がったままじゃ失礼だからね。

会ったら握手して、離さないんだから。最後にお礼を言うんだ。」と。

 

 

その通りの月曜日、81歳の誕生日に亡くなりました。

誕生日と命日が同じになりました。

 

 

思えば、前の晩の様子がおかしかった。

ふいに「お父さんはどこ?お父さんにお礼が言いたい」と。

そこで、家で休んでいた父の携帯にビデオ通話しました。

母が「お父さん、ありがとう〜」と伝えると、

「何言ってんだよ、俺のほうこそありがとうだよ」

と画面の向こうの父が泣いていました。

 

 

通話を切ると、母は顔をくしゃくしゃにしながら、「言えた〜、嬉しい〜」を繰り返していました。

嫌だ嫌だと言いながら59年連れ添ったのだから、色々な情があったに違いない。

朦朧と、うわごとのようにいつまでも繰り返しているので、

兄が「よ〜しよ〜し、もう大丈夫、大丈夫」と頭を撫でて落ち着かせてやりました。

すると母は「うん、うん」と子供のようにうなづいて、そのまま眠りに落ち、

「なんか様子が変だ」と兄と私は顔を見合わせました。

母が口をきけたのは、その夜が最後でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病室の母の様子を見に行くと、

ナースステーションに一番近い個室に配置されていて、

「ああ、もうそれくらい状態が悪いんだ・・・」と改めて思うのでした。

 

 

母は色んな管に繋がれていたけれど、もはや痛々しいとも思わなかった。

医療の管理下がどんなに心強かったか。

モルヒネが効いて穏やかに横たわっている姿、とにかく苦しんでいないのが救いでした。

最期は家で看取りたかったけど、この免疫力では無理だと悟ったのですショボーン

 

 

5年の闘病を助けてくれていた主治医の先生はとても謙虚で穏やかな方で、

母は自分の旧姓と同じこの先生を慕っていました。

私もこの先生で良かったと思うお人柄で、救われました。

そして母が、病棟医の先生の手を「この人の手、冷んやりして気持ちいんだよ」

と言うものだから、

「え?どれどれ?ホントだ気持ちいい〜」なんて和気藹々な雰囲気でした。

母は看護師さんたちの名前も出身地もみんな覚えていて、皆さんから慕われていました。

皆さんに本当に良い方ばかりで、感謝しかありません。おねがいお願い

誠に尊いお仕事です。

 

 

事実を知らされておらず、モルヒネで痛みがひき、脳内がお花畑になっている母は、

また退院できると思っているようで、胸が痛みました。ショボーン

 

 

一人だけ病室に泊まれるとのことで、母が私を指名してくれたこと。

面会が無制限になって、会いたい人に会えたこと。

この2つが本当に有難かったです。

 

 

母の身体はガリガリの骸骨、胸は洗濯板でおっぱいもペッチャンコ。

手足だけが皺もなくなるくらいパンパンに腫れていて、それを皆でさすってやりました。

おでこや手足の冷えピタや凍らせたペットボトルを取っ替え引っ換え、

体が痒いといえば掻いてやり、口が乾くといえば濡れタオルを変え、

あれが食べたい飲みたいと言えば調達し、

母の願いならなんでも聞いてやろう、という勢い。
 

 

病院側からは面会は身内に限る、病室に入るのは数名と言われていたものの、

親戚どころか、友人知人、近所の人まで、「最期にひと目」とどんどん訪ねてきて、

病室はスターの楽屋状態。

兄と私は、携帯でやり取りしながら、小グループに分けた面会人をさばくのに大忙しでした。

病院側も困ったな、と思いながらも大目に見てくれていたのでしょう・・・本当に感謝です。

 

 

母は先生に告げられた通りの1週間で亡くなりましたが、

毎晩、母といられたあの時間は宝物です。

兄や兄嫁、近所の人にすら色々と伝えていた母だけど、

私には特になんの話もありませんでした。

それが寂しいわけでもなく、心で通じた信頼があったからだと思っています。

それは今のパートナーと出逢えて、「この人なら大丈夫」と安心したからに違いありません。

 

 

言葉のない交流がそこにあるような気がして、

一緒に植物園に行くことが叶わない代わり嗅がせた、フローラル系の精油を喜んでくれたのが嬉しかった。

いつまでも手足をさすっていたかった。

けど「もういいから、あんたも寝なさい」「はーい」なんて、

私はなんだか、母とどこかのホテルにでも泊まっているような気がしていました。

看護師さん達が点滴を変えたり、心電図をチェックしたり、姿勢を変えてくれたり、

たえず病室を出入りしているにもかかわらず。

 

 

真夜中の病棟の怖さは全くなく、母がそこにいることが嬉しかった。

ある夜は、遠くから「うああああ!うああああ!」と叫び声が聞こえて、

「ああ、モルヒネも効かないくらい痛いのかな、可哀想・・・」と同情していたのに、

看護婦さんたちは談笑してる。

しばらくすると、「ちょっと〇〇さん、どこ行くの!トイレ?そこでズボン降ろしちゃダメ!!」

とバタバタ。

「あ〜、痴呆のじいさんだったのか、看護師さんも大変だなあ」という珍事件があったり。

 

 

そんな中で、母の病室には私が施術に使っているセラピーミュージックが携帯から小さく流れ、

母の寝息が聞こえ、私は平和で幸せでした。

母が亡くなるということに意識が向いていなかった。

今でも施術中に、母が「あの音楽かけて」と言ってくれたことを思い出し、

なんとも言えない切なさと温かさを感じるのです。

 

 

 

夜中じゅう、高熱と胃の痛みに苦しむ母に

父と2人、保冷剤や熱冷ましを取り替えに、何度も冷凍庫へ走りました。

いつも弱音を吐かない母が、「もう嫌だ・・・嫌だ・・・」

とうなされているのは、見ているだけで辛かった。

 

 

熱が38度超えたら病院へ、と言われていたけれど、

真夜中では緊急外来しかない。

以前、連れて行った時、

長時間待ったうえに、「主治医の許可なしに対処できない」という理由で

食塩水の点滴のみで帰宅、疲れさせに行ったようなものだったらしい。

翌日が定主治医との検診だったので、そこまで耐えてもらうべきか、

車に揺られて30分、待ち時間も長い緊急病棟へ連れて行くべきか。

本当に悩みました。

 

 

こんなに時間の経過が遅く、夜明けが待ち遠しかったことはありません。

父は高齢で夜に運転はできない。

私はペーパードライバー。

「救急車を呼ぶべきか?」と迷っているそばから、遠くで救急車のサイレンが。

「ああ、他にも大変な人が・・・」と、やるせなかった。

あれ以来、私は救急車の音に敏感になりました。

 

 

免疫が落ち、感染を起こしやすくなっているのか、

膀胱炎も併発したようで、トイレまで近くなってきた。

息も絶え絶えに、私に全身の力をあずけてトイレへ急ぐ母。

便座に座る前に、急いでパジャマとパンツを下ろしてあげながら、

「こんなことさせてもらえて、光栄だよ」と声をかけました。

娘だから気兼ねがない、私に頼って欲しかった。

 

 

そして母は、洗面所の鏡に映るガリガリに痩せた自分を見て

「ああ・・・ひどい顔になっちゃって」

と呟きました。

 

 

やっとのことで外がしらけ、朝が来ました。

少しでも早く適切な処置をとらせてあげたいと思っても、

採血、X線、検尿、と順番が決まっていた挙げ句に、熱があるためコロナ検査まで。

「辛い・・・早くしてくれないかな・・・」と目に涙を溜めて、

車椅子でぐったりしている母が不憫でした。

 

 

やっと主治医と面談できて、即入院しましょうと言われた時、

あれだけ入院を嫌がっていた母が、「はい、お願いします」と即答しました。

それくらい辛かったのでしょう。

 

 

点滴を打たれながら移動ベッドで、業務用エレベーターで病棟へ移動する母を見て、

涙が止まりませんでした。

それでもこの時点では、点滴と輸血さえしてもらえれば復活すると思っていました。

それで、こんな時なのに、経済的な理由で四人部屋を希望しました。

 

 

しばらくして、母のいないところで主治医と家族のミーティング。

 

 

母の胃の痛みの原因は、多すぎる白血球で肥大した膵臓が胃を圧迫し、

胃酸が逆流しているせいでした。

そしてもう、抗がん剤を投与し続けても効果は期待できないし、

身体に酷なだけだから、抗生物質とモルヒネで楽にしてあげましょう、と。

余命は数日から1週間、とのことでした。

 

 

何かあった時に蘇生処置を希望するか?と聞かれましたが、

かねてから母に「延命はやめてくれ」と言われていたので、断りました。

私たちも、もう母を楽にしてあげたかった。

 

 

ついにこの時がきたか、と涙が止まりませんでした。

もう受け入れるしかありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いったんロンドンに戻り、家族からLINEで知らされる母の様子を確認しながら、

4月は過ぎていきました。

 

 

3週間といわれていた入院は、「数値があと一歩」「まだ免疫力が十分でない」

などの理由で徐々に延びていき、母は精神的にも落ち込んでいきました。

そして快活で明るく、じっとしていない、人と接することが好き、花が好きな母にとって、

「1日2人、15分まで」の面会ルール、

花満開の春に病棟に閉じ込められている状況は耐え難いものでした。

 

 

味覚がなくなり、食欲がないとは聞いていたけど、

ある時送られてきた母の写真に、愕然。

ガリガリに痩せて、目が死んでいるのです。

かつて見たことのない顔でした。

 

 

元気を出してもらうため、大好きな孫(姪っ子、大学1年生)に面会に行かせると、

別れ際に、姪っ子の胸で子供のように泣いたというのです。

 

 

なにかがおかしい。

 

 

母とLINE電話した時に、「頑張ってるね」というと、

「そう言ってくれるのはアンタだけだよ、さすが娘だ、セラピストだね。

みんな頑張れ、頑張れっていうんだよ」と泣き声になっていました。

可哀想で、私も「うんうん、もう十分頑張ってる。これ以上頑張れないよね」

と言うのが精一杯でした。


 

あまりの衰弱ぶりを見かね、主治医のF先生から、

「母の日の5月11日から、誕生日の5月26日まで、家で過ごしていいですよ」

と、思いがけない一時退院を許可がでました。

母も大喜びで、私たちも「これでまた英気を養えるだろう」と思っていました。

後になって思えば、もう最期になりそうだから家に返してあげよう、

という病院側の計らいだったのでしょう。

 

 

かねがね、母が元気なうちに日本に3ヶ月くらい滞在したいと思っていた私は、

今がその時だと思いました。

本退院で母が家に戻った頃に、家事を代行し、施術をし、一緒に花を愛でたい、と。

 

 

いつもは強気な母も「今回は甘えさせてもらうよ、会ったら色々話そうね」

と言ってくれました。

 

 

ところが一時退院の喜びで元気にしていたのは最初の数日だけ、

母の容態は坂を転がるように悪くなりました。

「おかあさん、今日、吐いたの。でも何も食べていないから吐くものがなくて、見てて辛い。 

1日寝てて、話すのもやっとってくらい衰弱してる。 」

兄嫁からのこのLINEで、私は慌てて仕事をキャンセルし、

飛行機のチケットを早めに変更し、ロンドンを経ちました。

 

 

この時ほど、日本が遠く感じられたことはありませんでした。

母の身に何か起きていたらどうしよう、間に合わなかったらどうしよう、と涙がでるのです。

 

 

羽田空港からやっとの思いで実家に着くと、ソファに横たわり、ガリガリに痩せた母の姿がありました。

私を見るなり「ああ〜、よく来てくれたね、お父さんもS樹(二世帯で住んでいる兄)も、

食べなきゃダメだ、食べろ食べろっていうんだよ。食べられないって言ってるのに」と。

 

 

母はもう何かにつかまらないと歩けなくなっていて、

ほとんどを横になって過ごしていました。

 

 

口が渇いてしょうがないというので、私は以前、病院患者が口の乾きを潤すのに、

水を含ませたスポンジが先についた棒を使っていたのを思い出し、

近所の薬局で買ってきて、ベッドに横になっていた母に手渡しました。

 

 

すると、舌を濡らそうとした母は、それでえずいてしまったのです。

必死で洗面所に行き、吐くものもないのに、苦しそうに吐いている母。

私はなんてことをしてしまったんだろう、と後悔で身が裂けそうでした。

でも母は、瀕死の息で「よかれと・・・思って・・・やってくれたんだから・・・いいんだよ」

と言ってくれるのです。

今でもあの光景を思い出すと、涙がでます。

 

 

私に背中をさすられながら、母もまた、幼い頃に自分の母が吐いている

背中をさすっていたことを思い出したそうです。

祖母は母が小学校5年生の時に、胃癌で亡くなったのです。

 

 

そして母はその夜に高熱を出し、胃が痛いと苦しみだしたのです。

 

 

 

 

最愛の母を亡くすことが、かねてからの私の怖れでした。

その怖れが現実となった今。

 

 

このブログがあるのを思い出し、思いを綴れる場所があるのはありがたく、

非常に個人的な気持ちの整理で、長文になります。

 

 

母がいての故郷でした。

ハハノイルセカイが

ハハノイナイセカイに変わってしまったことを、

まだ実感なく受け止めています。

 

 

受け止めるしかないくらい、死はあっという間に訪れました。

いや、実際はだんだんと訪れていたのです。

 

 

母は骨髄異形成症候群で5年ほど闘病していました。

一生抗がん剤(後半は輸血も)に頼らないと生きられない、

月に5日間、隣町の大病院へ通院治療が必要。

なのに「病気とは思えないくらい元気ね」と言われるくらいだったし、

そんなサイクルで日常が流れていったから、そんなものだと慣れてしまってた。

でも旅行好きの母がだんだん外出したがらなくなっていたこと、

明るく快活な性格も、感情の起伏がなくなってきていたこと、

もっとこの病気の意味を察するべきでした。

 

 

いつもの里帰りのつもりで、今年3月に日本に着いたまさにその日、

母はついに急性白血病に進行したことを主治医から告げられました。

最後の望みの治療法を試すために入院が必要で、

効かなければ余命は半年とのことでした。

 

 

「この時が、ついに来てしまった。」とショックな反面、肚はすわっていました。

ハッピーちゃんの「ポッシブル」で丹田呼吸をしていたお陰だと思います。

 

 

入院は私がロンドンに帰る2日前となり、それまでは通院。

飛行機から降りたばかりで感染が気になったけど、

主治医からは「ではそれまで娘さんと楽しく過ごしてください」

と言われたようで安心しました。

今思えば、もう長くないから、という意味もあったのかもしれない。

家事もできないくらい弱っていた母の手料理はもう食べられませんでした。

滞在中は毎日、病院に付き添いました。

少しでも長く母といたかった。

一緒に来ていた彼も理解してくれ、日中はほぼ別行動でした。

 

 

病院は隣町で、車で30分。

免許返上しなければならない歳の父の運転で行きました。

自分がペーパードライバーになってしまってたことを悔んだ瞬間です。

 

 

F病院はとても立派で、まさに「白い巨塔」。

あらゆる科があって、病気のデパートみたいです。

幸い健康で怪我もなく、病院に無縁だった私には新鮮でさえありました。

感動したのは、受付も会計も看護師さんたちも、みんながみんな、笑顔で優しかったこと。

母がいつも通っている病院の様子が見れたのは良かったです。

入院をとても嫌がっていて、病状も進行して、さぞ不安だろうと思ったわりに、

勝手知ったる、という感じでどんどん先へ歩いていく様子が母らしく、少しホッとしました。

そして主治医のF先生は、とても温厚な方で安心しました。

母は、わりと珍しい自分の旧姓と同じこの先生に運命を感じ、好きでした。

 

 

母が入院する日もついていき、

クリーンルームに入るので面会は病室ではできない、などの説明を受けて帰りました。

不安で寂しげな父。

 

 

翌日は、私が羽田からロンドンへ飛ぶ前に、面会に行きました。

病院服で腕に管が刺され、リストバンドを巻いている母を見て、

「ああ、患者なんだ」と思わざるを得ませんでした。

 

 

入院は3週間の見込みと言われていましたが、

これで最期になるかもしれない・・・という一抹の不安も消すように、努めて明るくふるいまいました。

 

 

いくら別れが惜しくても、面会15分の病院のルールはあっという間にやってきて、

エレベーターのドアが閉まる隙間に見える母の姿が切なかった。

この時、母はどんな想いをしていたろう。

 

 

今思えば、この時にロンドンへ戻らずに残っていれば良かった。