このテーマでは今後「お弁当」について
調べまくりたいと思っております。
みんなでお弁当マスターになろう~!!(笑)

「お弁当」
って何ぞや!!??ということと、その歴史について弁当


【ウィキペディアより】

弁当(辨當、べんとう)とは、
携帯できるようにした食糧のうち、食事に相当するものである。

「弁当」は、「好都合」「便利なこと」を意味する中国南宋時代の俗語「便當」が語源ともされており、
「便當」が日本に入り、「便道」、「辨道」などの漢字も当てられた。
「弁えて(そなえて)用に当てる」ことから「辨當」の字が当てられ、
「辨當箱」の意味として使われたと考えられる。

調理が済んだ食べ物を携帯する習慣は、世界中で見られるが、
日本では、古くから弁当の習慣が起こり、他の諸国では例を見ないほどの発展を遂げていった。
これは、日本で一般的に食べられるジャポニカ米が、インディカ米などと比べ、
炊いた後、冷めてしまってからでもおいしいという特徴を持つためであるとされる。
伝統的な日本の弁当は、ご飯と魚介類や肉料理などのおかずを主に、
付け合わせとして梅干しなどの漬物を付ける。
おにぎりや稲荷寿司などを詰めた弁当も人気が高い。
弁当の具材は持ち運びがしやすい容器に入れられるのだが、
その容器は「弁当箱」という名で呼ばれる。
英語では、日本語をそのままに「bento」と呼ばれている。日本における伝統的な弁当は、
それぞれの家庭でこしらえていくものであり、
これは家事の1つとして重要な位置を占めていた。

弁当の起源は平安時代まで遡ることができる。
当時は「頓食(とんじき)」と呼ばれたおにぎりのほか、
「干し飯(ほしいい)」または「糒(ほしいい)」と呼ばれる、
調理済みの乾燥米が携帯用の食料として利用されていた。
干し飯は小さな入れ物に保管することができ、
そのまま食べる、あるいはこれを水に入れて煮るなどして食べられていた。

安土桃山時代には、現代でも見られるような漆器の弁当箱が作られるようになり、この時代より、弁当は花見や茶会といった場で食べられるようになった。

江戸時代になり、天下泰平の時代になると、
弁当はより広範な文化になると同時に、優雅な文化となった。
旅行者や観光客は簡単な「腰弁当」を作り、これを持ち歩いた。
腰弁当とは、おにぎりをいくつかまとめたもので、竹の皮で巻かれたり、竹篭に収納されたりした。
現代でも人気が高い弁当として、「幕の内弁当」があるが、これも江戸時代に現れる。
能や歌舞伎を観覧する人々が幕間(まくあい)にこの特製の弁当を食べていたため、
「幕の内弁当」と呼ばれるようになったという説が有力である。

明治時代、給食もなく、また現代のように外食施設が発達していなかったこの時代、
役所に勤務する官吏たちは、江戸時代からあるような腰弁当を提げて仕事に出掛けていた。
そのため、安月給の下級役人は「腰弁」などと呼ばれていた。
また明治初期の学校では昼食を提供していなかったので、
生徒と教師たちは弁当を持って来なければならなかった。
この頃、鉄道駅で最初の「駅弁」が発売された。
当初の駅弁は、おにぎりと沢庵を竹の皮に包んだような簡易なものであった。
サンドウィッチのようなヨーロッパスタイルの弁当が現れ始めたのもこの頃からである。
また、富国強兵政策を推し進める日本政府は、国民の健康と連体を高めるために、
弁当普及を推進した。昭和初期にはマニュアル本が多く出版されるようになり、
栄養価を考え、弁当に入れるおかずのバリエーションも多彩になっていた。

大正時代、学校に弁当を持って来る慣例を廃止する動きがあり、社会問題に発展した。
第一次世界大戦とそれ以降に不作が続くと、東北地方からの都会への移住者が増えた。
そのため、所得格差が大きくなり、弁当に大きな貧富の差が現れた。
当時の人々は、この現象が、肉体的な面からと精神的な面から、
子供たちに好ましからぬ影響を与えるのではないかと考えた。

昭和時代になり、多くのアルミニウムをアルマイト加工した弁当箱が開発された。
壺井栄の小説『二十四の瞳』に描写されるように、それは目の覚めるような銀色をしており、
またメンテナンスの容易さもあって、当時の人々から羨望の的となる。
また、かつて小学校の冬の暖房装置にストーブ類が多用されていた頃は、
持参したアルマイト弁当箱ごとストーブの上に置き、保温・加熱するということも行われた。

第二次世界大戦の後、学校の昼食は給食に切り替えられ、全ての生徒と教師に対し、
用意されるようになった。
これによって、徐々に学校に弁当を持参して来る習慣は少なくなったが、
現代になって、行政がコストを削減させる目的で、
一部地域の学校では給食制度が廃止となり、家から弁当を持って来る習慣が復活しているという。
弁当の調理は家庭の主婦の仕事とされてきたが、
女性が外に勤めに出ることも多くなったなどの事情もあり、
コンビニエンスストアで買ってきたおにぎりや、パンを持参する生徒も多くなった。

1970年代、駅弁は国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンもあって、
鉄道で観光旅行に出かける人が増えると、
各地の素材や郷土料理を活かしたもの、
観光地にまつわる物など、より多様なものとなった。
中小規模の企業で、自前の食堂を持たないところを対象に、弁当を配達する業者も一般的となった。

またこの時代、ジャー式の保温弁当容器が開発され、販売された。
これが普及したことによって、
職場や学校に弁当を持参していく者たちも温かい弁当を食べられるようになった。
しかし、この容器はサイズが大きいという欠点があり、
とても鞄の中に収まるようなサイズではなかった。
したがって、昼に温かい弁当を食べるためには、
鞄以外にもこの弁当容器を肩に提げて出掛けなければならなかった。
また、落とすと容器の内部が破損してしまうという問題もあった。

1970年代後半から1980年代にかけて、弁当は新たな市場にて登場する。

1つは、持ち帰り弁当専門店(通称:ホカ弁)の台頭。
1976年(昭和51年)に創業したほっかほっか亭が、
フランチャイズシステムで急激に伸びたことが挙げられる。
もう1つは、急激に普及したコンビニエンスストアでの販売で、
そこで販売される弁当は、店の電子レンジを使用して、
いつでも温めて食べられることが売りとなった。
同時に、スーパーマーケットの惣菜コーナーにも弁当が並ぶようになった。
これらは、「弁当を持ち帰って食べる」という新しい流れを作り出した。

また、都心部の食堂が少ない地域に、弁当を売りに来る業者も急増した。
弁当の配達業者も、時間指定で温かいものを届けることを売りにするものが現れ始めた。
これらの現象と呼応するように、ドカベンに象徴される金属製の弁当箱は、
耐熱性プラスティックなどの弁当箱に変わっていった。

平成時代へと突入した1990年代、コンビニエンスストアが地方でも一般的になり、
温かい弁当が一般化すると、駅弁でも化学反応を利用して加熱できるタイプのものが登場した。
2003年(平成15年)頃から、空港で販売される弁当「空弁」がブームとなっている。
乗客は空港での待ち時間や、飛行機に乗っている間にそれを食べている。
2005年(平成17年)からは、(主に母から子への)愛情弁当の「キャラ弁」が流行となっている。

2007年(平成19年)頃から、低価格の250円弁当が路面店で売り出され、
採算の合う大都市中心部で流行している。
以前から低価格の弁当は存在していたが、カテゴリとして確立したのはこの頃である。

2008年(平成20年)は、不況の影響もあり、節約のために弁当持参をする人が増えた。
弁当男子という、独身男性が自ら弁当を作って持参する言葉が生まれた。
さらに、1970年代に開発、発売された保温弁当容器も進化を遂げて、
一昔前の大きな弁当箱というイメージは薄れ、男性用ビジネス鞄に入るスリムなタイプが登場した。
近年は、女性向けに小型化されて、カラフルでおしゃれなタイプの保温弁当箱も登場している。



なのだそうです~!!niko
お弁当の歴史にしっかり「ほっかほっか亭」の文字!!!!!!!
発見いたしましたよ!!!
歴史を開拓してきたお店だったんですね。
プライド持てます。


$京都嵐山でお弁当屋をお探しなら!ほっかほっか亭嵯峨小学校前店!!!