韓国の教科書は朝鮮に出兵した日本軍に抵抗する朝鮮人民の姿を「義兵の活躍」の項で以下のように書いている。

「全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたる所で倭軍を打ち破り、苦しめた。
義兵は自発的に立ち上がり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形を上手く利用することができただけでなくはなく、
自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。
当時の代表的な義兵将としては、郭再祐、趙憲、高敬命、休静、惟政などを数えることができる。」

朝鮮人は一致団結して豊臣秀吉の日本軍に抵抗したという記述ですが、果たしてそうだったのだろうか?

義兵は日本軍だけを攻撃したわけではない、彼らは食料を強奪するために朝鮮の民衆や軍隊も襲った。
流民と化した朝鮮民衆は漢城さえ狙い、官軍に殺された。


余り知られていないことかもしれないが、実際には日本軍の中には、これに呼応した朝鮮の民衆が多数含まれていた。

支配階級の両班は党派抗争に明け暮れていた。

「宣祖実録」に拠れば、「人心怨叛し、倭と同心」するような社会状況の中で、明軍が朝鮮軍支援に駆けつけてみると、
「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」といったふうだったとのこと。

また、江戸時代末期に日本で書かれた「征韓偉略」に拠れば、秀吉の軍隊が京城に入城した時、兵士の半ばは朝鮮の民であったといいう。


また、韓国の教科書には、「文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が焼失した」と書かれている。
しかし、火を点けたのは朝鮮の民であり、秀吉の軍隊が京城に入る前に、既にそれらの建物は焼け落ちていたのである。

宣祖の京城脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が略奪・放火を恣にしたのであり、「虐げられた朝鮮の民衆にとって、
外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映った」との指摘すらある。(日韓・歴史克服への道 下條正男 著 より)


韓国の教科書は、そうした点については完全に無視し、もっぱら日本の悪と、これに対する挙国的な朝鮮人の抵抗だけを延々と書き連ねている。


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「宣祖実録」をみてみよう



「人心怨叛し、倭と同心」「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民」朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に加担する者が続出した。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であった。、、、、と書かれているのだ。


実際、: 王が首都漢陽から逃げ延びるとき二人の王子は民衆によって捕らえられて日本軍に引き渡されている。
漢陽死守を願う民衆を見捨てて、王や大臣たちがとっと逃げだした。


景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。それは、民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。

奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

鎌倉幕府が成立すると、幕府から任命された関東武士が、守護・地頭として南九州各地に赴任します。
相模国から渋谷氏が北薩、武蔵国から小川氏が甑島、千葉氏、鮫島氏、二階堂氏、北条(名越)氏等、
惟宗氏が大荘園の下司職・のちに守護に任命され、この惟宗氏が荘園の名をとり、島津を称します。
3代目から鎌倉を出て、鹿児島に土着する。これは、元寇が、赴任地に赴くきっかけとなったようです。

入部、土着した島津氏などの関東御家人と、肝付・伊集院・菱刈・伊地知氏などの在地豪族との争いや、
島津氏の内部紛争、中央の南北朝の対立に、地頭や郡司が複雑に絡み合い、県下は戦乱の明け暮れ、
長い動乱の時代となる。


戦乱の中で、島津の一支族伊作家の貴久が本家・本宗家に子供を養子にさせ、三州を支配し薩摩の統一。
九州制覇をも、もくろみ進軍中、島津氏は豊臣秀吉の軍に降参し、南九州の所領だけ安堵。
秀吉の命より、朝鮮征伐にでかけた島津義弘は藩主の弟で、陶工を連れ帰った。これが薩摩焼きの始まり。

その後、関ヶ原の戦いで、藩主義久を国許に残し、西軍についた島津は、義弘が徳川軍の囲みを抜けて退却。
敗戦大名は取り潰し・よくても所領削除が普通なのに、この時も領土の削減もなく旧領の安堵。
これ以降、領内の整備にかかる。
まず、城を城山麓に移し、城下も建設。琉球征服して、薩摩の属領とする。奄美大島などは直轄領に。
島原の乱に送兵、キリスト教のほか、一向宗も禁止措置をとる。ひそかに隠れ念仏が信仰される。
島津直属の武士を城下に、それ以外の武士は農村に残し、兵農分離策をとり、土着武士を各地に配置。
これが「外城制度」と呼ばれる。外城は地頭仮屋を中心に郷士が麓を形成し、地方政治と軍事の統括。
初め102あったのが、後に113の外城が形成。現在もかなり残っているが、知覧・出水・入来などは
まとまって残っている主なところです。



幕末の波瀾で、薩摩藩の活躍はご存知の通り。その背景には、斉彬と久光の後継争い・ペリー来航以来
開国か鎖国、将軍後継・尊王攘夷・公武合体・生麦事件・薩英戦争などがあり、土佐、長州、薩摩などの
下級武士が活躍する。薩摩も、西郷隆盛や大久保利通などが他藩をリードする。裏には薩摩藩城代家老の
小松帯刀抜きには考えられない動きもあるが、いずれ別項でとりあげてみたい。