”こうなるシリーズ”第3弾!!

なんてものでもないが、せっかくなので続けてみよう。

世間では「親の言うことは絶対だ!」と言う言い分がよく聞かれる。俺の親も言っていたし、ついでに「親を馬鹿にするな!」とも言っていた。

しかし、自分の親も他の人も、とてもじゃないが「親が絶対だったらどうなるか」というのをわかって言っているように思えない。

なので、前2回と同様に俺がきっちり書き出そう。

これを参考に、自分のふるまいを考え直してもらいたい。

・自分の間違いを正さない人間だと思われる
「絶対」であるということは、なに一つ間違っていないことだ。親がそういうだと仮定すると、彼らが「自分の間違いを正す」ということはありえない。

なぜなら、間違いが存在しないからだ。間違いが存在しないのだから、それを正すなんてあるはずがない。

別の言い方をすると、反省しない人間だということだ。反省する動機が生まれない。

俺の親は、この記事を読んで「間違いに気づいた。反省した」と言っていたが、それも嘘だとしか思ってもらえない。

それが、「親は絶対」ということである。

・言い訳ができない
親が間違えた時、「親だって間違うことだってある」とかいう人がいるが、「親が絶対」なら、そんなこと有り得ない。

なぜなら絶対だからだ。

絶対の人間が間違えるはずがない。よって「間違うことがある」なんてない。

「間違うことがあるんだからそんなに非難しないでくれ」ということはできない。

「親だって人間なんだから」と言うが、自分が強権を奮いたい時は神様気取りで、自分が非難されそうになったとたんに人間に堕ちるなど、都合のいいふるまいは不可能だ。

まあ、それでもやってるのが親という人種だが。

・なんでもわかったうえでやっていると思われる
親が絶対である以上すべてを見通し、すべてを理解しているはずである。

これまで俺はいろいろな事に対してその問題点を指摘してきた。例えば、「言葉の裏を読む」コミュニケーションは、傲慢であり、一方的な決めつけになりがちだということ。それは俺にとって不愉快だということ。

他に、親の心配は、その気になれば考え方次第でいつでも心配できるのだから、親を心配させるのが悪いことだというのなら、まず真っ先に親自身が心配しないよう考え方を改めるべきであり、「子供のせいで心配をしているんだ!」という主張は、子供にとって強いプレッシャーになることも指摘した。

これらすべて、わかっていてやっていた、ということになる。

問題のある行動、矛盾した発言、相手を不愉快にするすべての言動すべてが、不愉快だとわかっていてやっていたということになる。わからなかった、知らなかったという言い訳は一切できない。

「絶対」と言うのはそういうこと。

以上だ。

親が絶対だとこのようになる。ならねばならない。そうでなければ、「絶対」とは言えない。

「絶対」と言うのは非常に重い言葉だ。読んだ人の中には「無理難題を押し付けてる!」と思っ他人もあるかもしれないが、俺が無理難題を押し付けているんじゃない。親が自ら言い出した。

俺自身は、そして、おそらくほかの子どもたちもそうだと思うのだが、誰もそんなこと望んでない。

「絶対」と言う、言うなれば「過剰な正しさ」がなくても、親の言うことに納得できればそれに従う。

だから、何か言いつけを守ってほしければ、それが持つ意義をきちんと説明すればいいだけだし、それでも子供が言うことを聞かなければ「だったらあなたの責任で好きなようにすればいい」と言えばいいだけ。

しかし、そうはせず、自ら「絶対だ!」とわめいたのだ。ならばその責任、自ら背負ってもらわねば困る。

自分が、好き好んで、誰にも頼まれることなく言い出したのだから。

「絶対者としての強権は欲しいが責任を持つのはまっぴらごめん」なんて通じない。

だからまあ、

がんばってね。

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