お互いの「常識」は否定しない。ただし、他人と話し合う時が来たら、それは「自分にしか通じないもの」という点を自覚し、いったん棚に上げ、事実と論理で実証可能なものによってのみ話をする。
もし実証ができなくても、可能な限り合理的であることを目指して話し合う。

「常識」はわきへ置いておくだけだ。否定も肯定もしない、ただ、議論の俎上に乗せないようにするのである。それは、「幽霊を信じる」という「考え方」自体は否定しないのと同じである。

議論の結果、誰かの「常識」が否定されるかもしれないが、それはあくまでも事実関係や論理のみが否定されただけであって、それを常識と信じる「考え方」までは否定しない。

否定された側も、事実は自分が今まで信じてきた常識とは違うことを認め、公の場では、それを事実として、または「誰もが知って、正しいと思っていること」ではないことを理解して、それを押し通そうとしないようにする。
否定した側も、あくまでも事実関係のみが否定されただけであり、その人の「考え方」まで否定しないようにする。

異なる常識を持つ者同士が話し合う方法とは、これ以外にないのではないだろうか?

世の中はグローバル社会だという。日本でも、外国人の移民を受け入れるの受け入れないのと盛んに議論され、徐々に外国人労働者も増えてきている。

日本人は世界に出ていくべきだ、という論調はますます盛んである。

しかし、世界と日本の常識に大きなギャップがあることは想像に難くない。
「日本の常識は、世界の非常識」という言葉があるぐらいだ。
その状況下で、「常識が通じない奴なんて知らない!プン!」などとやっていては、わかりあうことも出来ないし、渡り合うことも出来ないこともまた想像に難くない。

そこでみなさんに問いたい。

俺たちは、本当に「常識」を当てにして「察して」「言葉の裏を読んで」などと、無言のコミュニケーションにすがっていていいのだろうか?

そのやり方は、外国で通じるか?

そもそも、日本でさえ通じていないのではないのか?

無言で分かり合えたことなど、本当にあったのだろうか?無言で分かり合うことが、そんなにも、“有言”で分かり合うことよりもいいコミュニケーションなのだろうか?

(続く)

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