もう一つ。
これは想像でしかないが、簡単に信じてしまう人は、どうも「説明できる」という言葉に弱い気がする。

「説明できる!(キリッ」

そう言われると、それが「幽霊持ち出せば説明できて当たり前」なんて言うことなど全く無関心になり、いともあっさりと「幽霊である」と断定しているように見える。(そのくせ、時に科学者の語る「科学で説明できる」という言い分は無視するのだが。)

「奇妙に理屈っぽい」と言ってもいいかもしれない。

具体的な証拠を求めず、ただ机上の、いや、あえて言うなら「口頭の空論」だけを真に受けて結論を出してしまう。(そのくせ、俺がいろいろな科学理論を持ち出し幽霊を否定すると「あんたは理屈っぽい!」などと非難するのだが。特に母親。)

しかし、その思考法は良くない。

これは何度も言っているが、証明に重要なのは、理論よりも証拠だ。「説明できる」などということより、「こういう証拠がある」ということの方がはるかに重要だ。

それは、たとえ理路上は正しい答えでもそれを否定できる証拠が表れたら、それは否定されるということだ。

なによりも証拠が優先ということを忘れないでもらいたい。

「説明できる」ことは重要だが、それよりも「証拠」だ。

たしかな「証拠」はそれだけで十分だが、「説明」はただそれだけでは足りない。論理が通っている、というだけではだめだ。
たとえどれだけ論理的には正しい説明があったとしても、その想像を超える証拠、あるいは誰も気づかなかった論理の過ちを示す証拠が表れるかもしれない。

人間の知恵は不十分で、完璧などということはない。そんな人間にとって、説明というのは、「今のところはこういうことだと思う。」という暫定的なものでしかない。
それは、どれだけ筋が通っていて、もっともらしくても同じことだ

「もっともらしいから信じる」というならそれは勝手だが、それは絶対の真実ではない。ただの可能性のひとつである。

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