もう少し、わかりやすく説明できるような気がしたので、メモ的に書いておく。

「『質問にあえて答えない』は無駄だって何回も言ったのに」

内容は、上の記事と同じなので、「もう飽きたよ」って人にはつまらないかもしれない。ただ、上の記事(とその続き)の説明は無視して聞いてほしい。

世の中には、「人に質問されても答えない」という方針を取る人がいる。

その理由としては、

「そうして分かった気になってはいけない」からだそうだ。
本当に身についてはいないのに、答えを得ただけでは力にならない、自分で考えて調べて身につけてこそ本当に自分の力になる、というのがその理屈らしい。

しかし、この理屈は奇妙である。

この理屈にしたがうなら
知識などを「本当に身につける」のに必要なのはわかったつもりにならないことであって、覚え方を云々する意味がない。

もっと細かく言えば、

どんな身につけ方をしようと、安易に分かった気にならないことこそが「本当に身につける」ために必要なことである、というのが理屈としては自然だ。

だったら、答えを求めているものに対して簡単に教えようが教えよまいが、それは関係ない。教わった本人が、わかった気にならずさらに理解を深め記憶にとどめようと努力する姿勢の方がはるかに重要である。

これが、彼らの言うことが正しかった場合にたどり着く結論だ。

しかし、奇妙なことに、彼らはそれには触れない。それどころか「質問には答えない」という無意味な点に執着する。

なぜだろうか?

おそらく、わかった気になりたいのだろう。

わかった気にならないよう心がければ、常日頃の復習が必要になる。そして、わかった気にならなければ、その仕事に終わりはない。

それがつらいのだろう。

だから、それよりははるかに楽で、安易に質問を得るよりは多少つらい作業である「聞く前に自分で考える」という作業をこなすことで「安易に聞かなかったから、私はこの知識が本当に身についている」という気分に浸っているのだろう。

その時点で本末転倒になっているが、なあに気にすることはない、そんなことに気づく人間なんて誰もいないし、気づいたとしても「それは屁理屈だ」ってことにして、それでも納得いかなければ数の論理で押し切ってしまえばいい、賛同者はいくらでもいるぞ、というのが大方の考えなのだろう。

まったく、うんざりだ。

(終わり)

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