はぁ…。

また、あった。

こちらがものを聞いても答えてもらえなかったことが。

その真意はわからないが、そのせいで、今まで経験してきた「質問をしたのに『あなたのためにならない』とか言う謎理論で答えてくれなかった嫌な思い出」がよみがえった。

だから、そのストレスを吐き出すためにも、もう一度書こう。たぶん、何度だって書くことになるんだろうな…。

以前の記事は取り合えずこちらから。サブ唯言 質問には答えたほうがいい確率

「他人にものを聞いて安易に答えを得てしまっては、その知識は本当の意味では身につかない。」

それが正しいとしよう。

では、それを確認する方法は、いったいどんなものだろうか?

実証には、対照実験が必要だ。

今回のケースだと、「質問の答えを得られなかったから、自分で考えて答えを探して見つけ出したら、よく身につけることができた。」

これを確認しただけでは、到底実証できたとは言えない。

比較となる事実の確認が必要だ。

その比較として確認しなければいけないことは、以下の3つである。

1.質問の答えを得られた結果、身についた。
2.質問の答えを得られた結果、身につかなかった。
3.質問の答えを得られなかった結果、身につかなかった。


1だけが確認できていないなら(今回の場合は、それがあり得ないことを確認するということだが)、答えを得られるかどうかにかかわらず身につくという可能性が残る。
2だけが確認できていないなら、その場合は、1が成立しているということなので、答えを得られるどうかにかかわらず身につくという話になってしまう。
3だけが確認できていないなら、1が成立している上に、「身につかない場合もあるかもしれない」という可能性が残る。

つまり、「相手の質問に答えない」ということが「相手のためになる」というシチュエーションは、

相手が上の1,2を確認できているとわかっている場合だけ。

しかし、俺の質問に答えなかった人間が、俺が1と2を確認できているかどうか聞いてきたことはない。

彼らはそれを知るはずがないのに、とにかく質問に答えないという態度をとる。

思うに、彼らは上記の通りに確認しなければいけないという知識がないのではないか?

(続く)

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