さらに付け加えておこう。

「勉強ができないと心配」
そうかと、勉強ができるようになれば
「体力ない子は心配」
そうかと、運動をするようになれば、
「運動ばかりで勉強しなくなって心配」
そうかと、勉強をするようになれば、
「勉強ばかりで運動しなくなって心配」
そうかと、運動を→以下ループ


こんなことを平気でするのが多くの親だ。

これは結局、「自分の思い通りにならないと気が済まない」という傲慢な願望に過ぎない。

実は、愛情でさえないのだ。

自分の支配欲、独占欲、そういったものを「子供のためになっているから!!(筆者注:実際にそうとは限らない)」と言って、ごまかしているに過ぎない(もしくは、まったく気づいていないか)。

こんなことを言うと、「違う!本当に愛情だ!それはただ単に、勉強も運動もちょうどいい加減ってものがあるだろうが!それを言いたくて言ってるんだ!」などと反発するかもしれない。

しかし、その「ちょうどいい加減」とやらは、親の脳内にしかない。

「常識ってものがある!」と言うが、それも大抵は、親の経験の範囲内という、極めて狭い範囲のものでしかない。その上、それがその子にとって適切かどうかもわからない。

残念ながら、「自分の思い通りにならないと気が済まないだけ」というのを否定できる根拠は、少なくとも現時点では存在しない。

そうでなければ、「自分が思い描く理想のイメージを相手に押し付けているだけ」と言い換えてもいい。

子供の負担になるわけだ。
心配がうざいと思われるわけだ。

「そんなこと言って、なにも子供に言わなかったら何もできない子供になる!」

という反発があるかもしれないので、最後にその点について言っておく。

もしそうなったら、それは、その子の選択だということ。

自分で「勉強ができる人間になりたいか、運動ができるようになりたいか、両方できる人間になりたいか、何もできない人間になりたいか」そのことを考え、自ら望む選択をし、その結果を自身で引き受ける、そうであるのがその子の人格、主体性を尊重することだと考える。

危険ばっかり冒して、その子が損をするのもその子の責任でその子の自由。それで得をすることがあったらそれもその子の責任(手柄と言ったほうがいいか?)でその子の自由。

親が口を出すことではない。ましてや、くるくると何度も何度も正反対のことなど。

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