それは、好意だ。

人が人に思いを寄せる。

その点において、好意と心配は全く同じだ。

しかし、決定的に違う点がある。

それは、前者は拒否しても許されるのに対して、後者は許されていないことである。

例えば、

「好きです!付き合ってください!」
という申し出に、
「ごめんなさい!」と断ることができる。していいことになっている。

例えば、「告白された側にも選ぶ権利があるんだから」などという理由で。

しかし、心配は違う。

受け入れなくてはならないことになっている。されたらよろこばなくてはいけないことになっている。

親からされた場合は特に。

そんな二重基準で世界は動いている。

そこがもう、根本的にずれているのだ。

する側が頼まれもせず勝手に、一方的に、人に思いを寄せるという点で、好意も心配も、ついでに言うと期待も変わらない。

そうではないか?

心配するとき、心配してほしいと頼まれたことがあるだろうか?
俺は一度もない。頼んだこともない。頼んでいる人も見たことがない。(いや、少しはあるか?)
心配は、する側が勝手にやっているのである。
それは、人を好きになるということとまったく同じだ。

しかし、なぜだか、好意は人に押し付けてはならず、心配と期待は相手に押し付けていいということになっている。

二重基準。ダブルスタンダード。

その点も、親の心配が「うざい」理由のひとつである。

(続く)

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