「え!?『愛するものが死んだら死ね』!?何言ってんの!?そんなことするわけないじゃん!!!いや、そりゃあ『あなたがいなくちゃ生きていけない』ぐらいのこと言うよ!?でもそれはさー、言葉のあやみたいなもんでさー本当にそうなわけないじゃん!!!

もうこれだから詩人みたいなやつは嫌なんだよ!!揚げ足取りばっかしやがって!!

ほらあるじゃん!!なんか『かっこいいこと言いたい』的な?そういうこと言ってさあ、向こうに気に入られたい?みたいな?そのためにちょっと大げさに言ってるだけじゃん!!

そんなこと誰だってやってるんだからいちいち文句言ってくるな!!ほんとに空気読めないんだから!!」

こんな反応が関の山だろう。

そんな人間に中原中也の誠実さなど理解できはすまい。

そんな誠実さを持った中原中也だからこそ、その後こう続く。

「けれどもそれでも業(?)が深くて、なほもながらふことともなつたら、奉仕の気持ちに、なることなんです。」

愛するものが死に、死なねばならぬはずなのに生き続けたとき、奉仕の気持ちになるとは、これは要するに、「贖罪」なのだろう。

自分の言葉、そして子供への愛情を嘘としてしまった罪、あるいは(疑問符つきではあるが)「業―前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。」を贖うために、公に対して奉仕することにしたのだろう。

とはいえ、中也は実際には何もできなかったようだ。

以下は、奉仕の気持ちになった後の生活ぶりが続く。

毎日を淡々と、無味乾燥に過ごす様子がつづられている。「まるでこれでは、玩具の兵隊」という一文に、その単調さが表現されているように思う。

淡々と、その奥にブリキのおもちゃが太鼓をたたいてリズム隊を務めているさまが見えるように、「テムポ正しく」日常がつづられている。

そして、

「つまり、我等に欠けてるものは、実直なんぞと、心得まして」

と、自身の不実さを白状し

「テムポ正しく、握手をしませう。」

と結ぶ。

これは、「自殺しなけあなりません」もそうだが、呼びかけているようで、実際には自身に語っているのだと思う。

俺はこの詩が好きだ。

まあ、こうして紹介するぐらいだから当たり前だが。

人間の悲しみ、強さ、弱さ、滑稽さ、葛藤、楽しいようでむなしく、むなしいようで楽しい人生を、描いているもののスケールに比べれば極めて短い分量で描き切った名作だと思う。

だが、おそらく、ほとんどの人間に対してその半分も伝わるまい。

さっきも言ったように、まず

「愛するものが死んだら自殺しなけあなりません」と言う言葉に込められた意味に共感することができないからだ。
頭で理解することはできても、共感することは絶対にない。

なぜなら、この手の発想を「屁理屈」だの「揚げ足取り」などと言って悪とみなすのが多勢の意見であり正義だからだ。

そんな中で中也の気持ちなど狂人の発想に過ぎないだろう。「狂想」と言うタイトルはそんな思いでつけられたのかもしれない。

きっと多くの人間がわからない。

わかってたまるか。

適当に話し、自分の表現のまずさなど気にも留めず、相手が自分の言葉を真に受けて、それが自分の意に沿わないものであったなら、相手の人格をあしざまにののしり、自分を正当化する。

そんな人間にとってまさに中也は極悪人でしかあるまい。

それを思うと、この詩は一層俺の胸を打つのである。

(続く)

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