言葉の裏や話の先を読むことを、しばしば「一を聞いて十を知る」という。

だが、実際には、正しい方向に進んだ上での裏、もしくは先を読んでなどいないことのほうが多い。

喩えて言うなら、

「一を聞いてFだと思い込む」

といったことのほうが多いように思える。

以前に例に挙げたように、言葉の裏(あるいは話の先)を読み、それがその通りであることは多くないように思う。
いや、多かったとしても変わりない。

なぜなら、言葉通りに受け取って話を進めれば、外すの外さないのという問題がそもそも発生しないからだ。

しいて合理的なメリットを挙げるとするなら、話が早く終わるということだが、ただ、そんなに話を早く終わらせたとしても、誤解を生んでいては、それを解くのに時間が必要になり、かえって言葉通りに話を進めた時より時間がかかりそうだ。

もし、その誤解を解かなかったとしたら、本来の会話の目的が果たせておらず、何の意味もない。

この図式は、スピード違反に似ている。

自動車のスピード違反をしたがる人間も、先を急ぐことばかり考えていて、事故を起こしたときに余計に時間がかかる、最悪の場合、違う目的地、「あの世」という名の別の目的地についてしまうリスクを失念している。

いったい、目的地にたどり着くために、目的地にたどり着けなくなるリスクを冒して何になるというのだろう?何にもなりはしないではないか。

結局、「言葉の裏を読む」とは、

目の前の事実をあえて無視し、

根拠もなく裏を読み、いや、妄想し、

会話の目的である「理解しあう」ことができなくなるリスクを冒してまでやって、

それで得られるものは何なのか?
それは、「なんとなく気持ちいい」という気分の問題を除けば

「相手の言葉を理解する」という、言葉の裏を読まなかった時と、まったく同じ結果

だけなのである。

(続く)

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