しばしばベストセラーになる、「ストレスがなくなる考え方」だの「幸福な人の考え方」だのには、この[考え方を変える]と言うのがよく出てくるが、それも当然だ。

なぜなら、目の前の事実、実際に聞いた言葉をありのまま受け取る以外の考え方は、自分の責任なのだから、

自分にとってストレスにならないような考え方をすればいいだけだ。

だけなのだが、なぜかそうしない人間が多い。

俺の母親もそうだったし、これまで出会った人の中にも何人もいた。
人の発言、行動を自分にとって不愉快なものであると、勝手に受け取り勝手に怒る。

なんとまあ奇妙なことか。

さらに奇妙なことに、その予想通りに考えてなどいない、と伝えるとさらに怒る。

論理的には、
「ああ、なんだ。わたしの予想は違ったのか。あー、嫌な予想が外れてよかった、よかった」

となるのが当然だが、
「予想通りならむかつく。違ったら違ったでそれもむかつく」

となっては、もう処置なしだ。
結局、どちらに転んでも腹を立てるのだから、なぜ腹を立てるのか、腹を立てているのは誰のせいかは明白だろう。

一体なぜ彼らは自分の読みが外れると腹を立てるのだろう?ちょっと予想してみる。

「自分の読みが絶対だと思っている」
だからこそ、読みが外れると信じられないあまりにそのいら立ちを相手にぶつけるのではないか?

「ルール通りに発言しないことに腹を立てている」
以前述べたが、俺は言葉の裏を読むとはルールに従うことだと思っている。つまり、言葉の裏を読み間違えたということは、彼らにしてみれば、相手がルールを守っていないからと言うことになる。それが許せないのではないか?

「本当は当たっているのに、ごまかすために嘘をついている、と思っている」
これはこれでありそうだな。
そして、実際この通りならかなりたちが悪い。

もはや何を言ってもこちらの言うことを聞かないことが予想されるからだ。

「わずかな情報から、全体を判断することを賢いことだと思っている」
これもありそう。

どっかの名探偵が、些細な一言から真犯人を見抜くように、自分も他人の些細な一言から他人の考え方を暴きたいと思っているのかもしれない。

「実に面白い真実はいつも謎はすべてまるっとお見通しだ!」

って感じで、相手の言葉の裏を読める自分を作り上げたいのかもしれない。
だから、それを外れたといわれると、「せっかく賢いつもりになって悦に入っていたのに!」いらだつのかもしれない。

読みに、過去の経験や自分の知恵、人格のすべてをかけている、と思っている。
これもありそうなんだよなー。

彼らはたいてい、過去の経験に基づいて、彼らなりに知恵を絞って読んでいるのだろうが、そのために、自分の知恵、ひいては人格、いやいや、それどころではなく、自分の存在のすべてをかけている、と思っているのかもしれない。

全くそんな話ではないんだがな。

とはいえ、本当にそう思っているとしたら、その読みを間違えたと言われることは、彼らにとってみればそれは、全人格、存在、人生を否定されたも同然なのだろう。

腹も立てるわけだ。

たとえそれが、これまで何度も、そしてこれからも何度も繰り返す膨大な量の会話の、たった1回を間違えただけだったとしても、それが全人格否定になるということなのだろう。

やれやれ。

(続く)

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