言葉の裏を読む人は、最初に例に挙げた俺の母親やブログの閲覧者のように、時にありもしない言葉の裏を読み、その結果に対して怒りを覚える。

そして、もともとの発言者に対してそれをぶつけてくる。

だが、それは合理的に正当な行為ではない。

これまで語ってきたとおり、どんなふうに読もうとそれは可能性の一つに過ぎず、またその正当な根拠はない。
そうである以上、それはあくまで

その人自身の考え方だ。

ただし、これも前に述べたことだが、そう考えるのはその人の自由だ。

ただ、この自由であるということはどういうことか?

それは、
その人の責任であるということだ。

その人自身が、自らの意志で考え決定した結果なのだから、その責任があるのは当然だ。

発言者は、あくまできっかけにすぎない。

ある発言をきっかけに考え、可能性を立て、どれか一つに決定したその責任は言葉の裏を読んだ人間、その人にある。

であるならば、その怒りの原因、および責任は、言葉の裏を読んだその人にあるのである。

最初に挙げた例の母親の場合なら母親に、閲覧者の場合なら閲覧者にある。

このことをわかっていない人って結構多い。

俺の母親もそう。

もし、例の出来事を覚えているとしたら、おそらく「息子のせいで腹が立った」とでも思っていることだろう。

ブログの閲覧者も「お前責任とれんの?」と言っているぐらいだから、まあ俺のせいだと思っているだろう。閲覧者の場合は、その人の怒りが俺のせいだと思っていることは判然としないが、少なくとも、俺の意見で他人が考え行動した結果は、俺のせいだと思っていることは確実だ。

だが、実際には、その読みが彼女たち自身の責任で考え出したものである以上、その怒りの責任は彼らにあるので、

俺に文句を言うのはお門違いだ。

(続く)

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