そして、もう一つ。

俺は幽霊について

「幽霊がいるという確かな証拠は見つかっていないのだから、いないとみなすのが妥当」

と考えていると言った。

俺は、この考え方を人との会話にも当てはめている。するとどうなるか?

「言葉の裏があるという確かな証拠はないのだから、無いとみなすのが妥当」

つまり、俺は相手の言葉を聞いたとき、

文脈によって読み取れない限りはそのまま受け取ることにしている。
「言葉の表」を読むのである。

京都人の嫁のドーナツの件のようにである。

俺は、言葉の裏が読めないとよく言われてきた。
しかし、そうではない。言葉の裏を想像することぐらいできる。

ただ、問題なのは、

考え得る可能性がいくつかあり、どれか一つに断定できる根拠が得られない

ことである。

言葉の裏の可能性はいくつか思いつく。だが、証拠がないためどれか一つに確定できない。

それらはすべて、実際に起こった事実ではなく俺の頭の中でくみ上げた推測にすぎず、根拠もなく確定させられるものではない。

だからこそ、唯一実際に起こった事実である「言葉の表」をその発言の意図みなしているのである。

「さすがに1つしか読み取れないことだってあるだろう!」

と言う方もいるかもしれない。

そういうこともあるにはあるが、その指摘には意味が無い。

なぜなら、

一つしか読み取れないのは、俺の考えが足りないからかもしれないからだ。

例えば、
職場で知り合ったばかりの人から言われる「今度家に遊びにおいでよ!」には言葉通りの意味と、「ただの社交辞令」と言う意味と、それ以外に何かあるかもしれない。

「それは何だ?」と聞かれても俺には分からない。

「だったらあるわけないだろ!」と言う人がいるかもしれないが、それはわからない。俺には分からないだけかもしれない。

前にも言った通り、他の可能性が思いつかないのは知恵が足りないからかもしれない。

俺には思いつきもしないまったく別の可能性があるのかもしれない。


「俺には分からない=有り得ない」と言う論理を成立させるためには、俺があらゆる可能性を考え得る知恵が必要だが、そんな知恵を俺は持ってない。

そうである以上、やはり、唯一確実なのは言葉の表以外にないだろう。


(続く)

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