前の3つの理由の中で、最もおかしなものは年齢を理由にしたものだろう。「経験」と言い換えても良い。

「過去」の他人の経験が、「今」の俺の考えていることと一体何の関係があるというのか?

何もない。

その過去の経験というのが、俺のことだったのならわからないでもない(本当はおかしい)。


だが、多くの場合、それは、

俺とは全く無関係の人間がそのときとは全く無関係な状況で言ったことを基に、判断しているようだ。

この判断方法が示すのは、結局のところ、

言葉の裏を読むというのが決まったパターンの反応をするということ

ではないだろうか?

そしてもう一つ。
この手の人間が自分の「読み」の正しさを主張する根拠としてあげるのが、「自分が常識人であること」だが、これも非常に変だ。

俺よりも彼らの方が世間の常識をわきまえている。

まあ、それで良いだろう。

だが、それが何だというのか?

「今話している人は非常識なことを言っている」可能性をどうやって否定できるというのだろう?

いや、彼らには、その可能性を否定できる根拠などないのだろう。

そもそも、そんな可能性思いつきもしないと思う。

ただ、「常識ではそういう言葉の裏が有ると決まっている」のだから、そういう反応をし、もしも相手が彼らの常識とは違っていたのなら、その非常識さを非難し、それにより、自分の対応の正当性を主張するのだろう。

常識が無い!

だの、

察しが悪い!

だのとわめきながら。

こういう反応をするのは、結局のところ「言葉の裏を読む」とは「ルールに従う」ということだからではないか?

もう一つ、「言葉の裏を読む」が「ルールに従う」でしかないと考える理由がある。

それは、「ありがとう」と「ごめんなさい」だ。

この2つの言葉はなぜか、言葉の裏に込めてもわからない人が多いようだ。

例えば、「ありがとう」を裏に込めて、「助かりました」と言ってもわからない。
「ごめんなさい」を裏に込めて「こちらのミスです」と言ってもわからない。

いや、分かろうとしない。決して納得しない。

普段は、「気を使え」「察しろ」「空気読め」「言葉の裏を読め」とさんざん言っている人間が、「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉があり得る場面においてだけ、その「読み」を放棄する。

なぜか?

それは、結局、

「この2つの言葉だけ、必ずはっきり言わなければならない」

と決まっているからではないだろうか?

ある場面では裏を読み(実際の有無にかかわらず)、また別の場面では読まない(これも有無にかかわらず)。
そのダブルスタンダードを平気で行ってはばからないのは、それは「文脈や状況をかんがみて、言葉の裏を読まなければならない」のではなく、「どの場面でどう考えるかルールで決まっている」としか、とうてい思えない。

(続く)

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