「銀河鉄道の夜」再考 | 和して同ぜず

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頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったらう。水は酸素と水素でできている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにさうなんだから。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまといふだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとかを議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えとうその考えとを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学も同じやうになる。

ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって天の川だって汽車だって歴史だってたださうかんじているのなんだから。                                           (異稿「銀河鉄道の夜」ジョバンニの切符)

 
それが党派や立場である限り、どれも正しいとおもえば正しいといえるし、どれも限られた正しさだといえばそうにすぎない。ただひとつ救いがあるとすれば、どんな党派や立場のものの行為や、信仰や、信念でも、それにかかわりなく感動や感銘をうけることがありうることだ。これはなぜか。どうすれば確定できるのか。それはもっともっとほうんとうの勉強をして「ほんたうの考えとうその考えとを分けてしまえばその実験の方法さえきまれば」よい。そうすれば信仰や、信念や、それがつくりあげた至上のもの、もろもろの「神」や「仏」も、化学やそのつくりあげた究極の物質観もおなじことになる。

                 (「宮沢賢治」父のいない物語・母のいる物語)

テレビだって、お菓子だって、みんな同じエネルギーで構成されている。ただ、今はそれらが自由に変換することをよしとしていないだけ。物質は絶えず生成変換される。そして人間の認識もまた然り。万物を構成するエネルギーは川を流れる水、あるいは空を吹き抜ける風のように根底に普遍的に存在する。

この世のものはなすべくしてなる。あることがそのように決まっていればそのように実現する。あるいはそのようになっているのは、そうなるように決まっていたからだ。
前者では因果が同在し、後者ではすべての事象は宿命である。

これら2つの考え方を基盤として上の引用部分は主張される。

人間は根源的に幸福感や充足感で自分を騙し、いきている。
そしてふいに自分の矮小さに気付き、発狂しそうになる。

ぼくらには孔が空いている。
日常は実は常に不安定であり、その両側は切り立った崖だ。
発狂へ至る崖だ。命綱はない。
なにか埋める物をもってこい。なんでもいい。
とにかくはやく。お願いだ。
たすかった、ありがとう。
ところで、何で崖を埋めたんだい?
私の孔はどうなった?塞がったか?
おい、どういうことだ。
別の孔があいているじゃあないか。
崖....おい。

空いた孔は埋めることはできても取り除くことはできないんだ。