台風クラブ | 和して同ぜず

和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

日常非日常が入り乱れる中に大人とこどもの対立が配置されている。
台風を非日常の象徴として、真夜中の学校、ばあさんの死の予兆、ボイコット、演劇、教師のプライベートの学校への侵入、東京、京都への羨望、乱痴気騒ぎ。

「台風来ないかな」というつぶやきを発端に次々と入り込んでくる非日常によって夜の会話、レズ、タバコという日常が浮き彫りになる。
日常は意識してしまった途端に日常ではなくなり、演じているという違和感が生じる。
人間の新しい一面が見えたときに感じる違和感も同じである。エネルギー発散の場として非日常を求めていたが、その違和感によって登場人物達は今の状態が変であることを直感する。
それでもなお、非日常を求めようと精神世界に逃げ込む。

その現れが三上の禅問答のような受け答えなのではないか。

個は種を超越できるのか。

死は種の個に対する勝利なのか。

個が種を超えるときとは具体的に何を意味するか。

種を個の経験の集合と捉えるならば、経験の源である個が種より上位にあると結論することができる。

精神世界に逃げ込んでも目の前に叩き付けられるのは、時が経てば歳をとり大人になるという現実だ。
言うならば人間の種の個に対する勝利だ。個は駆逐される。
そして大人たちはとことん醜く描かれている。女に貢がせる教師、酒浸りの親、ヒステリー気味の女の母親、残念な親。(そういえば生徒の親は全く出てこなかったな。)


15年も経ちゃ今の俺になんだよ。後15年の命なんだよ。覚悟しとけよ。

これが真理である。

人間はずっと続く日常のほうが居心地がよいし、大人になれば社会に監視され雁字搦めになる。では死ぬことでしか個は勝利することができないのか。


死は生の前提である

俺たちには厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。

しかし最後まで死にきれない。通称犬神家。ここは最高のギャグだ。殺してやれよ。
最後までかっこがつかない。それもまた人間とかいいたいのか。


ラストの台詞、台風でむちゃくちゃになった校舎に対して、

   金閣寺みたい。

これは三島の「金閣寺」を彷彿させるとネットで多くの人が噂しているが、本当にそうであろうか。
三島が金閣寺で言いたかったことは、頭の中の理想は現実に勝るのではないかという挑戦的問いではなかったか。
もしそうならこれを文字通り捉えるのは安直だ。
むしろ、日常への非日常の侵入、つまり毎日通っている校舎がおそらく教科書でしか見たことのない金閣寺に見えた、と考えることはできないか。
非日常と日常の境界があいまいになってしまった。非日常が日常に飲み込まれた。
その意味では終わりなき日常を予感させる終幕であったと言えるかもしれない。


最後に、研が満子の背中にやけどを負わせ保健室で満子が治療を受けている場面で外には桜。それが一番不可解。

台風は夏やろ。普通….