ねこを見て「ねこだ」と言う | 和して同ぜず

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頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

昨今の生物学の体系は、物理で測定、科学で解釈、生物で理解という三段論法で日々邁進しているという。
このように生物学に物理的思考、つまり、事象をものとして捉え理解できない部分は捨象し単純化、細分化して再構築できさえすれば我々人間はその事象を理解した、とする考え方が導入されて以来、生物学者の中で意見は二極化している。
一方は生命がモノとして完全に記述できると信じ、生物から機能を抽出し、モデルで再構築しようとする。
他方は、モデルは所詮生物を理解するための道具に過ぎず、生物学の基本は博物学にあるはずだという。
「始めに生物ありき」というわけである。

確かに我々は、物理学的な捨象によって過去には想像もつかなかったことに対して理解し、予測ができるようになった。
この威力は半端ではない。
それは私たち自身がよくわかっている。

しかし、現在の状況を見ていると、この考え方のまま突き進んでいいのか首をかしげざるおえない。
現在の国民国家の運営において問題を抱えていない国を答えることができるだろうか。
長年の大問題である生命の起源に本当に科学は近づているのだろうか。
リスクのない乗り物があるだろうか。
リスクのない人工物はあるのだろうか。
我々の生活はほんとうに豊かになったのだろうか。といくらでも未解決の問題は出てくる。

では、これら諸問題の源はなんであろうか。
それは人間が捨象してきた事象に対する見方ではなかろうか。
ねこを見て「ねこだ」では行き詰まってしまうようである。

目の前にブラックボックスがある。
私は何が入っている知らないし、中身の見方も知らない。
手を入れることはできるが、その勇気はない。
それでも中身を知りたいならば、手を入れる勇気を持つことも一つだが、見方を変えるパラダイムシフトこそ普遍的な手段ではないだろうか。