「笑い」は信仰を回避する。
「笑い」だけは信仰を回避する、と言ってもいいだろう。
「笑い」とは、情緒的作用か身体的作用か、といえば身体的作用である。
胸の奥深くから自然に湧き出る笑いではなく、日々の挨拶のときに使う事務的な笑いに近い。
もし、人間が理性で受け入れられない対象に出くわした場合どうするのか。
つまり、もし、人間が理解できないが納得することはできる対象に出くわした場合どうするのか。
もし、私たちがそれを納得できなければ、残念ながら私たちは「笑う」しかないようだ。
信仰とは理解するものではなく納得するものである。
理性とは納得するものではなく理解するものである。
つまり、信仰と理性は対義語であると同時に相互補完関係にある。
では笑いとはなんだろう。
情緒の発露だろうか。
情緒の隠蔽だろうか。(微笑みは無表情という表情に違いない。)
情緒の共有だろうか。(いかにも笑いは伝染するのである。)
表情筋の緊張だろうか。(あまりにもそっけない。)
身体と情緒の同調だろうか。
社会への反逆だろうか。
はて、笑いの根本は”処理する”ことではないか。
つまり、笑いの意味の極限は”処理”という作用ではないか。
誘導尋問じゃないか!と言われれば、返す言葉はない。(笑いの意味の捨象の過程が短絡しているのは重々承知の上さ。)
私にとってはこの仮説は信仰の対象だが皆さんには理性の対象なのだともいえるかもしれない。
しかし、だからといってこの仮説が打ち崩されることはないのだ。
仮説はあくまで仮説だからである。
笑いの意味が”処理すること”にあるなら、話は簡単だ。
信仰を処理するにはうってつけと言わざるおえまい。
処理と言っても棚上げに近いネガティブな印象の処理であるから回避というわけだ。
この仮説を笑い飛ばすか、あるいは納得するかは自由である。
ただし、その瞬間この仮説は例証されるのだが。