読み終わった後、いてもたってもいられなくなり、自転車をこいだ。
腹の下のほうでぽっかり穴があいたみたいだ。
冷たい夜風が身体を具現化する。
街が鳴いている。
私の身体はそこに「あった」のだ。
空は澄んでいる。
「山椒魚」を読んだ太宰治もいてもたってもいられなくなったというが、これは井伏鱒二の作家活動を通してのテーマである「悲しみ」に感化されたからだという。「山椒魚は悲しんだ」は有名な書き出しである。
では僕は何に感化されたのだろう。
そいつはおそらく「愛」だ。
くそぅ、こんなイエス・キリストのような愛があってたまるものか、と思っていることがなによりの証拠だ。
大乗的愛、普遍の愛、隣人愛。名前はどうでもいい。
こんな観念がもし本当に在るのなら、屈服しざるおえまい。
そもそも絶対なものを他と比較することがナンセンスだ。比較とは共通項があって初めて成り立つのだ。
或は、この「愛」を主体と距離をおいた客体と見なすことが間違っているのかもしれない。
進化論について是非を議論してるようなものだ。
進化論とは一つの枠組みとして機能してるのだから。
宮沢賢治がこの「愛」を客体として見ていたならこんなものかけるはずはない。