芸術的思考、建築的思考 | 和して同ぜず

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頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

「何かしなくちゃいけないと思うのは人間だけ。

他の生きものたちはみんなそこにいるだけで満足しています。

いのちはただ生きているだけが基本。

ただ生きているだけでは満足できなくなった人間は、

いのちプラスアルファのおかげで不幸になりましたね。」

谷川俊太郎

 

芸術的思考とは、常に自分を突き放して、対象に対して思考することだ。

今回の震災(東日本大震災)に関しては日本経済、復興のための都市設計(効率優先)、トランス・サイエンス(科学と社会の共通部分の問題)、「がんばろう、東北」の標語。

学問に関しては哲学、研究医学、宇宙物理学、現代数学、経済学など。

 

建築的思考とは、常に自分に引き付け、対象に対して思考することである。 

震災に関しては、個人の資産、復旧のための都市設計(人間優先)、子供を持つ母親の心情、地区レベルで異なる住民の心情など。

学問に関しては、文学、臨床医学、古典力学などが挙げられる。

 

二つの思考のバランスによって自ずと、趣向、もっと言えば就く職業さえ決定してしまう。

私は芸術思考に偏っているのは間違いない。

しかし、こいつが厄介なのだ。

諸悪の根源は身体が常に建築的であることだ。

いや、むしろ建築そのものと言ってもいいくらいだ。

身体を芸術思考のほうへ傾けることは、身体の放棄、即ち死を意味する。

 

死後の世界を信仰するのであれば意味はあるが、死を無への帰還と捉えるならば救いようがない。

この極限状態を乗り越える方法の一つとして宗教は有効のようだ。(残念ながら哲学に救いはない。)

神に対する信仰により無条件にあらゆる形而上学的な問題がクリアされるからである。

建築的思考には「生きる意味」は存在しないが、芸術的思考にとっては「生きる意味」は大問題である。

 

宗教だけが建築的思考と芸術的思考を結ぶツールならば、発狂するか、神に祈るか。

生きるとはこの二択に換言されうるかもしれない。

  

ただし、宗教の代替案を考えるならまず候補として挙がるのは言語に違いない。