身体の無機物化 | 和して同ぜず

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頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

 生物と無生物の間にははっきりとした溝があるが、有機物と無機物の間になるととたんに話はややこしくなるようだ。
ここでの有機物とは生命のある、あるいはあったものの構成要素であり、無機物とは生命が時間軸上に置いて一度も生命の宿ることのないものの構成要素である。
化学でいう非金属原子と金属原子のようなものであると考えていただいて結構。

化学と言えばこんなことがあった。
ある日、学校の化学の実験で金属元素と非金属元素の化合をやったのだが、そこで生じる色とりどりの沈殿に対して嫌悪感しかなかったのだ。(俗にいう「生理的に無理」という言葉があてはまるといえるだろうか。)
その時点ではみんなが同じ感情を抱いているにちがいないと、隣のやつに聞いてみたのだがどうやらそうでもないらしい。

結論を先に述べよう。有機物と無機物が原子レベルで混ざることに対する抵抗のあらわれだ。

今でも記憶に残っているということは僕にとってよほど衝撃的なこと。
そのほかの化学実験においてその嫌悪感が僕を襲ったのは合成高分子に関するものだけであったこと。(これに関しては無機物の有機物の模倣に対する恐怖なのかもしれない。我々がよくできた人形に対して気味の悪さを感じるあれである。)
十分な根拠はありはしないが、おおむね先の結論は僕の胸に綺麗に収まっているのだ。

僕のこの直感的な感情(有機部と無機物の化合の拒否)が間違っていなければ、有機物と無機物の関係はどうやら補完的であるようだ。
さらに、自らを覆う服を植物から合成樹脂に、さらにそれを覆う住まいを木造から鉄骨へと変化させてきた人間はどうやら自己を無機物化することを望んでいるらしい。(自分自身はまぎれもない有機物であることも忘れて…)

しかし、自身が有機物であることを忘れるのもわからないでもないから困ったものである。
その原因は皮膚にある。皮膚とは内(有機)と外(無機)を分ける境界となる。
外に向かう境界面において肌は無機物的性質を帯びている。(陸上生物の場合は地上の乾燥に耐えねばならない。)
(例外的に、口から食道、腸を経て肛門にいたる内と内なる外を分ける境界は有機部的性質をたぶんに残している。)
日常唯一視認できる自分の部位が無機的なのだ。(五感を司る器官は皮膚という境界面にある「窓」なのかもしれない。)
しかし、建物の「窓」から外の景色を見たところで建物の中がどうなっているかがわからないのと同様に、人間にメスを入れればたちまち思わず目を覆いたくなるような臓物が溢れ出すのだ。
人間が有機物であることを否定すれば人間が生きることを否定することになりはしまいか。


とすれば、<まったく人間が、金属製でなかったというのはつくづく残念なことだった。>とはとんだ皮肉である。