人の感情、特にマイナスの感情って複雑だよね。
だって、自分がこう感じているっていう原因とか感じる過程についてだって明白じゃないんだもん。
私がよく思うのは、例えば、私の寂しいっていう感情は果たして本当の意味での「寂しい」なのか。
うまく文章化できないけど、寂しいって思う原因についてAという心当たりがあるとしよう。
でも、そのAに原因を求めるのは私がなにかそこに求めたいという気持ちがあるからなんじゃないかって思うの。
Aが原因であるって言ったほうが自分の感情に言い訳ができるし、逃げることも可能だし、他人に感情を伝えるのが楽だからとかの理由で、無意識にその感情に“合う”原因をあてがっているだけなんじゃないかって。
もちろん、もしかしたら本当にAに原因があるのかもしれない。
でも、これが原因だって言ってること自体言い訳な気がするの。
感情ってのはそんなに明快なものだとは思わないし、そこに原因だのなんだのって存在するとは言い切れないと思う。
だから私は「トラウマ」って言葉があまり好きではないし、自分の感情を伝える時に自分の生い立ちとかを原因にもってくるのが好きではない。
でも、他人に伝えなきゃならないときには最も考えられる「原因」を理由にして伝える。
思うんだけど、自分のマイナスの感情を他人に伝えるのって甘えだよね。
なんの生産性もないのに、「分かってほしい」「共感してほしい」「押しつぶされそうなのを助けてほしい」ってだけで何かそれらしい「原因」をつけて表現するんだもん。
私は昔から自分の感情とかについて追求していく習慣があったから、子供の時から色々心理学の専門書とか読み漁ったり、一人で黙々と思考したりしてたけど、最近になってこういう風に思い始めたの。
もしかしたら、私のこの考えは無駄なのかもしれない。
だって、たぶん答えの出ないことだもん。
でも、何かに「原因」をおいて感傷したり同情を誘ったりするのは甘えだと思う。
その「原因」が過去のことや改善することのできないことならなおさら。
だって、それが自分にとって「普通」だったんだから。
「普通」の中にいてトラウマってなんなのって思う。
「普通」を「普通じゃない」って気づいたってことは、状況が良くなったからなんだよ。
状況が良くなって価値観が変わった途端に「普通」だったことに自分のマイナス感情の原因を求めるのはあてつけなんじゃないかな。
もちろん、虐待とか次元がまるで異なることは範囲外に話してるよ。
ここに書いてあることは完全に私の感情と生い立ち、思考に基づいて、私用に考えたことだから。
うまくまとまらないけど、今日はそんなことを改めて考えたんだよね。