プレーイングマネージャー列伝⑧ | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

村山実

 







村山実(1936~1998)




住友工業高校から関西大学に進学、58年大阪タイガースに入団。闘志をむき出しにしたピッチングは、当時の陸上選手エミール・ザトペックの、顔をしかめて喘ぎながら走る姿になぞらえて「ザトペック投法」と呼ばれた。59年6月25日、天覧試合で長嶋茂雄にサヨナラホームランを打たれて以来、村山 VS長嶋のライバル関係が出来上がったのは有名である。




62年、64年のリーグ優勝に貢献。67年頃より右腕の血行障害に悩まされエースの座を江夏豊に譲る。69年は兼任投手コーチ。70年より兼任監督。同年200勝達成、この年記録したシーズン防御率0.98は戦後唯一の0点台記録。72年シーズン限りで現役引退、監督退任。背番号11は永久欠番となった。通算222勝は大卒の投手としては最多勝記録である。




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大学時代は阪急・オリックス、日本ハム監督となる上田利治とバッテリーを組み、2年生のときには全日本大学野球選手権に出場し、全試合完投で優勝に貢献する。58年、阪神電鉄に入社し出向の形で大阪タイガースに入団した。




公式戦初登板は同年4月14日の国鉄戦。初先発でもあった。ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客はたったの34人しかいなかったという。ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封という鮮烈デビューであった。




天覧試合では、巨人の長嶋茂雄にレフトポール際へのサヨナラホームランを打たれた。微妙な判定であったため、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言っている。また、闘志むき出しで全身を使ったダイナミックなピッチングは「ザトペック投法」と呼ばれた。




村山のウィニングショットはフォークボールである。オーバースロー、スリークォーター、サイドスローで投げ分けられるフォークは空振りを量産した。村山は小柄で指も短かったため握力強化などに努めた。フォークの落ちの悪さに悩み込み、人差し指と中指の間の付け根をカッターで切り付けたこともあった。




エースとは投げる後姿で野手に語りかける物という持論を持っており、黒木知宏(ロッテ)らのエース観において多大なる影響を与えている。