長嶋茂雄の爆笑「天然」録。
~高校・大学~
長嶋が高校3年生のとき、入学当時から20センチも身長が伸びた。ある日長嶋は、保健室を訪ね、不安げな表情で
「まさか俺、背の伸びる病気じゃ・・・」と相談。
それを聞いた保健教員は「おめえ、百万人に一人の馬鹿」とあきれ果てた
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立教の長嶋専用入試問題の「赤鉛筆は何色?」という問題の回答を
「青」
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立教大学で、級友がフランス語の辞書を買いに行くのに付き合い、辞書を見て
「それ何?」
と聞いた。級友が驚きながらも、これこれこうやって単語を調べることができるものだと教えると、
「英語にもこういうのがあったら便利なのになあ」
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大学時代
「アメリカの首都?シカゴに決まってるじゃないか」
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大学卒業時に
「今年はホントに僕のね、なんていうんですか、もう、一番のね、ある、例えばまぁリーグ戦でもね、春秋まぁ連続優勝と、それとまぁ僕個人としてもああいう記録の8号ホーマーですか、で、2度目のリーディングヒッターね、あれもとりまして、その中でやはり僕も8号ホーマーですね。あの11月3日ですか、文化の日にね、まぁ、しかも最後の学生野球に出たってことが、僕もあれは一生忘れることはできないでしょう」
これを聞いた記者はまるで理解できなかった。
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大学卒業後、新聞記者に
「どこの学部を出たのですか」
と聞かれ
「野球部に決まってるでしょ」
と答えた。記者は仕方なく立教大学に電話。長嶋が学部というものを理解したのはその後であった
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大学時代、後輩を連れ映画を見に行くことにした。後輩が「何の映画に行くのですか?」と聞いたら
「今日は特別に黒澤の名画だ。三船敏郎主演の『ノヨシケン』だ」
映画館に着いて後輩たちが見たのは「野良犬」の看板だった
~野球・現役~
試合前着替えていたときに
「ストッキングの片方がない」
と選手全員使って探させた。よくみたら長嶋は片足に2つストッキングを履いていた
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オールスターのとき、ベンチで「車の鍵がない」と言って、王や野村にさんざん探させた後に
「あ、おれ電車で来てた」
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遅刻をした時の言い訳
「いやー電車が行き先を間違えちゃって」
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後楽園球場に幼稚園児の一茂を連れて行き、置き去りにして大騒ぎになった。が茂雄は
「どこかで遊んでいるんじゃないの?」
とのんきにしていて、球場からの電話で初めて気づいたらしい。
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またも後楽園に幼稚園児の一茂を連れて行ったが、その日は3打席3三振。
「カッカしてすぐに帰ってきた」
もちろん一茂は置き去りになったがなんと
「(一茂を)誰かが連れて帰ってきてくれた」
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試合後柴田がタオルを探していたとき、長嶋「おい、誰か知らないか?柴田のタオル?」
全員が必死に探している中、長嶋は柴田のタオルで自分のスパイクを磨いていた。
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巨人の契約金を銀行へ預けたが、おろそうとしたとき初めてどこの銀行に預けていたか知らないのに気づき、立教の先輩の家に電話して聞きまわった
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試合前の素振りに没頭し、投球コース・球種を一球一球イメージしながらあまりにいいイメージの球が来ると、素振りにもかかわらず見逃し、
「うーん、今のは手が出ないな・・・」などど渋い顔をした。
そして素振りを終えた長嶋は、風呂に入ってそのまま帰宅しようとした。カバンを持って「じゃ」と選手に挨拶をして球場を出ようとしたら
「長嶋さん! どこ行くんですか!? これから試合ですよ!」
との声でやっと我に返った
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1961年キャンプでアメリカに行ったとき
「アメリカの子供はすごいなあ。英語ペラペラじゃないか。しかも車はみんな外車じゃないか。さすがアメリカだ」
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アメリカに行ったとき「うーんアメリカの月はビッグですねー」
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アメリカに行った時、長嶋は店にあったスーツが気に入り、何度も売ってくれと交渉したが断られ、結局諦めた。
実はその店はクリーニング屋だった
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新車のベンツを買って初めて球場まで運転していったとき
「今日は、車の調子が悪いんだね。アクセルが重いんだよ」
記者の一人が覗いたら、サイドブレーキが掛けっぱなしだった
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新車のジャガーを買い、初めて運転したときどうも走りがおかしい。すぐにメーカーに
「こんなひどい車があるのか」
と怒鳴り込んだが、やはりサイドブレーキが掛けっぱなしだった
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記者のインタビューで
「打った球はカーブでした」
といったのだが直後他の記者に
「打った球はシュートでした」と答えた
なお、カーブとシュートは曲がる方向が全く逆である。
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阪急との日本シリーズで旅館に試合道具一式を忘れてしまい、川上にばれるのが怖くて記者に頼んで荷物を取りに生かせ、その間長嶋は一人でランニングしていた。第6戦では旅館のスリッパのまま球場入りした
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日本シリーズで野村が心理戦に出て
「チョーさん、左肩が下がっとるんやないか?」
とフォームを崩させようとしたら長嶋は目を丸くして振りかえり
「えっ、ほんと? タイム! タイム!」
とタイムを要求し、素振りを繰り返した。その後ヒットを打ち生還し野村に向かって
「いやーノムさんありがとう!」
野村はこの瞬間、この男には心理作戦など一切通用しないことを思い知った
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ロッカールームで柴田が着替えているとき、100円玉を置いていた。が長嶋はその100円を持っていこうとしたので柴田が、
「それは俺のだ」
と言ったら
「ごめん、僕のによく似ていたから」
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東北遠征のとき、寝坊した長嶋は上野駅に車を横付けし荷物を降ろし電車に乗った。
その後長嶋家に警察から「車を預かっている」と電話。なんと長嶋はエンジンをかけっぱなしで車を上野駅正面に放置。
3日後、茂雄はタクシーで帰宅し、上野駅に車で来たことは完全に忘れていた。
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プロ野球ニュースのインタビューで
「なんで俺は今までバースデーアーチを打った事がないんだろう」
なお長嶋の誕生日は2月20日である。
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1960年、一死一・二塁で一塁に長嶋。打者王がフライを打ち上げるが、アウトカウントを間違えていた長嶋は猛ダッシュで二塁を回り、二塁に戻ってきた走者藤尾を追い抜きアウト
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ユニフォームを着たが、サイズが合わないらしく、異常に窮屈。ナインが長嶋の背中をみると、なんと背番号が8。
半分にたたんであったのでどうも8が3に見えたらしい
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1958年9月18日の後楽園球場での広島戦で、鵜狩投手のウエストボールを大根切りでホームラン。大喜びの長嶋は大喜びでダイヤモンドを一周。が、次の打者のときファーストの藤井が鵜狩に「ボールをよこせ」と言い、一塁送球しアウト。
はしゃぎすぎた長嶋は1塁のベースを踏み忘れていた。
なお、この幻のホームラン(記録はピッチャーゴロ扱い)のせいでその年シーズン30本を逃し、また長嶋の通算本塁打は444の並び数字となり、さらにはカズシゲの本塁打がセリーグ通算3万本になった(以上3つ、赤レンジャー様の情報提供に一部加筆いたしました)
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1959年6月25日、走者1塁に長嶋。打者はフライを打ち上げる間に長嶋は二塁を回って三塁へ。捕球されると同時に長嶋は慌てて直接一塁へ戻ろうとして即アウト。
なお長嶋はこのミスを何と3回(以下64年、68年)も犯している
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1959年、ボールの判定の後、一塁に行く長嶋を見て選手全員唖然。
その時のカウントは2-3で長嶋だけが四球と勘違いしていた
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1970年、一死一塁で打者長嶋。2ストライクからの投球で長嶋は空振り、が捕手が後逸したのを見て猛ダッシュ。
長嶋はアウトカウントが1以下の時、走者一塁での三振は振り逃げできないのを知らなかった
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長嶋に前打席ホームランを打たれた中日・板東は苦し紛れにど真ん中に投げ三振にしとめた。
長嶋は板東に対して一言
「オイ、コラ、魔球を投げるんじゃねぇよ!」
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長嶋は現役時代、サイン見落としの常習犯だった。ある日の対・大洋戦、土井淳が「サイン、出てるぞ」と突っこむと、
「まあ、あれも仕事ですから」と全く意に介さなかった(以上2つ情報提供:N様)
~野球・監督時~
定岡の入団会見で背広を着せようとしたとき
「洋服を着るのは初めてか?いわゆるリーチは?」
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スランプに陥っていた掛布が長嶋に電話してアドバイスを求めた。その時長嶋は
「バットを持ってスウィングしてみろ」と言い
「よーしそのスウィングだ」といった
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大久保が「スイングを見てもらえますか」と言って素振りをしたが長嶋は「うーん、どれどれ」と大久保からバットを奪って何度も素振りをした。そして
「どうだった?俺のスイング?おかしくなかったか?」
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大久保が長嶋にバッティングを教えてもらったときに
「バッターの心構えは、まず第一に集中力、次に細かいところに気を配る、これが三大原則です」
大久保は怖くて「あとひとつは?」とはつっこめなかったそうだ
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1999年のオールスターで石井一久を見て
「いいバリングをしているねえ。あれ?もう終わったの?うのちゃんのことでかまってやろうと思ったのに」
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1999年8月22日の敗戦後、
「清原君はヒット1本打ったから十分ですよ」
ヒット一本しか打てないクリーンナップってなんだよ
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1999年の秋季キャンプに行ったとき、デーブに
「ブーちゃん、俺は今度還暦が来るまで監督やるよ」
長嶋はこの時点で63歳、次の還暦は57年後である
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「勝負は家に帰って風呂に入るまで分からない」
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自民政権が崩壊したときに
「社会党が政権を取ったら野球が出来なくなるんじゃないですか?」
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アナウンサーになった三奈に
「インタビューは相手のいう事をよく聞くこと。自分ばかり話してはダメだ」
それを聞いた三奈は
「それはお父さんでしょ」と逆襲。茂雄は何も言い返せなかった。
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2001年9月27日、広島に初回8点を含む猛攻で負けたとき
「8回の1点が痛かった」
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「監督辞任を決意したのはいつか」の問いに
「いやこれはもう、いつかと言うよりも、私どもいつも、キャンプに行くおりに、今年一年間という勝負の年という形で、ベストを尽くそうとゆう形いつも、キャンプに臨む際においてはいつも、この秋に無事に乗り切れるか、まぁ辛い決断をしなければイカンのか、言う様な事を思いはいつも、二月の時にいつも、思っております」
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打撃指導で
「来た球を打て!」
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2003年10月28日の五輪野球日本代表の記者会見で「背番号はこの場で見せるんですか?」との問いに
「いや、グラウンドで」
などといいつつ記者会見上でジャンパーをあっさり脱ぎこの場で見せてしまう
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アジア大会で
「カーブでカウントを稼いで、最後カーブ」