合理的配慮はズルいですか?


世の中の仕組みに不便さを感じたのは

私が子供を産んで

ベビーカーを使い始めた時でした。


駅で、エレベーターがないと移動が困難。


お一人様、歩ける私なら

階段もエスカレーターもあるので

なんの問題も感じなかったんですよね。


しかも

移動中は「すみません」と言う回数が

めっちゃ増えました。


駅はお一人様で歩ける人に合わせた作りになっています。

歩けない人は少数派。

少数派になって初めて

この世界は大多数の人が過ごしやすい

に合わせた作りになっているんだなと実感しました。


さらに息子は

配慮があったほうが

より伸びるタイプ。


いわゆる、少数派です。


幼稚園も保育園も小学校も…

多数派に合わせた仕様になっています。


多数派であれば

スイスイ進んでいくので

なんのひっかかりもないから

気にもならないんです。


でも

少数派は

いちいち

進めなくなって戸惑います。


これ、自動ドアが何故か開かない時みたいなんですよね。





みんなその入口の前に立つだけで

スッと自動ドアがあいて

立ち止まることもなく入っていける。


でも

息子の手を引いた私が

たとえば

幼稚園の前に立っても

扉が開かないんですよ!

幼稚園の入園自体を断られるんです。


何件も何件も

開かない自動ドアの前で

子供の手を握りしめながら

悔しくて悲しくて腹立ち泣きました。


幼稚園も小学校も病院も散髪屋も歯医者も耳鼻科も習い事も入れるお店も、子供を抱えてひたすら探し回りました。

開く扉が見つかるまで。


なんで開かないのかわからなくて

飛び跳ねたり

両手をブンブン振ってみたり

四苦八苦して

ドアが開く仕組みを解き明かす。


ああ〜

一定の体重以上じゃないとダメなんだ。

ああ〜

このセンサーが反応しないとダメなんだ。


うちの子がそれに合わせられないから

開かないのか。


公共、ですよね?

私達は社会の一員じゃないの?


こちらが社会に合わせるのには限界があります。

努力でどうにかならない問題もあるんです。


社会側が、こちらに歩み寄ってくれないと

そこに入ることすらできない。


あなたはここまで。

人生ここ止まり。

その範囲内で

あきらめてねってことです。


その横を

スイスイ通り過ぎていく人たちを

どれだけ見送っただろう。


毎回、その繰り返し。

自動ドアが開かない。


あきらめたら

本当にそこで終わりなんです。


だから必死に

こじ開けるか、交渉してきました。


これ労力がいるので

そもそも、それ、必要か?

を吟味することからスタートです。

幼稚園に行く意味とは?目的は?

この子の人生に必要か?


そんなこと、考えます?

普通、みんな行くし

小学校なら

義務教育だから行かせるじゃないですか。


考えて考えてやっぱり必要となったら

あらゆる手を使って

なんとか自動ドアを

手動でこじ開けるんですよね。


私達、何も悪いことしてません。

自分として生まれてきただけです。


ただ、社会が多数派仕様というだけ。


少数派はひたすら努力をして

やっと扉をあけられて

そこからがスタートラインなんですよ。

なんなら開けられない扉のほうが多いです。


不公平だなあと思うけれど

声を挙げないと

誰も気づいてくれないんですよね。


多数派は自分が当たり前に享受できていることは、ノーカウント扱いというか。

自分達はなんの恩恵も受けてませんけど?

あなた達だけ、特別扱いはズルくないですか?

あまやかしじゃないですか?


自動ドアの向こうから振り返って

ガラスの扉越しに

どれほど言われてきたことか。


だから

私も声を上げていこうと思いました。


自動ドアが開く人たちに


合理的配慮はズルくない


あなたの行く道を邪魔することも

あなたより先からスタートするわけでもありません。


ただ

あなた達がなんの苦労もなく立つ

スタートラインに立つだけなんです。


理解してくれる人が増えたら

それだけで

障害が1つ消えるんですよね。


いつか自動ドア自体がなくなって

誰もが自分の人生の可能性を

自由に広げられる世界が来ますように。