いつも、読んでいてくれる方へありがとうございます。


母の事について、少々・・・


母は、糖尿病を患っておりました。私が、22の頃に一度倒れてから、カテーテル検査を何度も行っておりました。


母が、心筋梗塞で倒れた時にその異常に気付いたのは、父だった。父の好判断で、すぐ救急隊が駆けつけ一命を取り留めました。


ICUと呼ばれる場所に、1ヶ月近く入っており、面接時間も30分という制限の中、私の父は、毎日通っていました。


夫婦だから・・・とかあるだろうが、私から見ても凄いなって思いました。


父も高齢なので、さすがに1週間過ぎた頃に、私と入れ替わりで面会に行こうと話したのを覚えています。


糖尿病は、薬だけの人もいればインスリン注射をしている方もいます。母は、注射と薬で治療しておりました。


時に、母は低血糖で倒れる事があると判ったのです。


私は、大変な事に気付いてなかったのです。


糖尿病は、そんなに怖い病気じゃないと思い過ごしていたのです。母は、病院に血糖値等をこまめに検査しており、薬も注射もしっかり気を付けて処置していたので、大きな心配をしておりませんでした。


食事の時間を規律通りに、摂取しないと意識が無くなり危険な状態になります。


父が、リハビリ施設へ入所中には、自由に自分の時間を作れるので、母の顔色も良く、買い物に行く時は、私の彼女も連れて行ってくれ、仲良くしてもらっていました。


私の休みの日に、3人で父の所へ行ってから、食事をするのですが、その日は父のところに長話になって、13時を過ぎてから食事を取る事になりました。


母の様子が、少しづつおかしくなったの気付き、母に聞いても目も虚ろで、体に力が入らない様子だったのを覚えています。


幸い、母の持っていた、“ブドウ糖”を舐めさせて大丈夫でした。


私は、父の所だけに目が行ってましたが母もしっかり面倒見ないといけない事に気付いたのです・・・


私には、当時同棲をしている彼女が居ました。

勿論、両親にも顔合わせしおり、父が倒れる前からの付き合いです。


働いてはいませんでしたが、週に4日父の元へ行ってくれたりもしました。


母が目の前で倒れてからは、私は父の所へ、彼女は母の所へ

行くようにしました。


母の所までは、バスで1時間半かかります。


私は、彼女に半分負担してもらってるおかげで助かりました。


すらすら書いておりますが、思った以上に大変でした。


母は、ヘルパーが週に3日くるのですが、私に電話かかってきて、奥様が居ないんですが部屋で倒れてませんか?と何回も電話がありました。仕事を何度、抜けて行ったでしょうか・・・

幸い、買い物や友人とご飯にでかけており、ヘルパーさんが来るのを忘れてただけでしたが・・・


私と私の彼女は、電話が鳴る度に怖い思いをしたのを覚えています。


でも、私の両親をしっかり知った上で介護してくれる彼女は、最高に尊敬する女性です。


私は、彼女と結婚しました。


父を、施設へ向かえに行き、車椅子で参加でした。

式ではボロボロと泣いていました。

私と、彼女と、父と、母の4人の小さな小さな結婚式でしたが、両親は、私の結婚を楽しみにしていたので、凄く喜んでくれよかったです。


後日小さな披露宴をやりました。ごく少人数で・・・父は、施設の為に
参加出来ませんでしたが、妻になった彼女が、母へ手紙を書いていました。私の母に対して、どんな事が書かれてるのか・・・

「お母さん、私は感謝しています。何も出来ない私と、一緒に出かけたり、沢山お話をしてくれたり、勉強になる事だらけです。これからも、よろしくお願いします。」


私は、こちらこそだよ・・・


“感謝”という言葉が耳について離れかった。


母も、感謝したいのは私だよと泣きながら言っていた。


ほぼ毎日、母や父の所に出かけて行くのも大変だろうと思っていたからだ。


施設で足りない物を買って、母には晩御飯を買って届ける。


巷では、同居するのは嫌だなんだと言っているが、見事に私の妻はこなしてくれ、父や母の所へ行って帰ってくると楽しかった!と言って、その日の出来事を話している。


これも、私の両親の縁なのだろう・・・


続きます。

皆さんのコメントで、心が癒されます。

ありがとうございます。


私が、“養子”と告げられた後、今までに無いほど親との時間を過ごす事が私に出来る、“親孝行”だと考えて生活を送りました。


人並みですが、告げられる前までも、親との時間はあったが、

こんなにも“意識して親と過ごす時間”は無かったかも知れない。


実家で親に会うたびに、昔の思い出が甦ってくる・・


無理を言った事・ひどい事を言った事・親をうっとしいと思った事等・・・

本当に、反省・感謝を繰り返す日々でした。


良く見るニュースが、幼児を虐待等を見ると、涙が出るほど、両親に感謝したくなる。

実の子供に対して、ストレスや育児で八つ当たり等があるのに、私はそういう記憶は一切無い。


そう、実に幸せに生きてきたが実感できる。


生活に困っていた時も、両親は私には苦労をさせないとおもったのか、母は、65歳近くまでパートで働いていた。


ごめんね。自分の事ばっかで生きてて・・・


28の頃、親父が通いの診療所で倒れた。

幸い、診療所の先生が手配を早くしてくれたので、父は一命を取りとめた・・・が・・脳梗塞でゆっくりしか歩けなくなった。


私は、実家をでて一人暮らし・実家で両親は暮らしている。


事実上、介護しているのは“母”だ。


それでも、会社帰り等で実家により両親の元気な顔や、一緒に食事などをして楽しい生活を送っていた。


私が、32歳のなる3日前に母から電話が来た。

私は、“父が倒れた”事がわかった。

信じない人もいるだろうが、電話が鳴る数分前に、親父が俺の名前を呼んでいるのが聞こえた。

だから、電話鳴った時に心構えは出来ていた。


救急で搬送されたのは、父を受け入れ拒否した病院だった。


最悪の容態で、父は記憶もあやふやになっているのか、私たち家族にひどい口調で罵った事もあった。

母も、医師のひどい言葉で何度、泣いたことだろうか・・・

でも、私たち家族は乗り切った!

最悪の状況を脱して、記憶も定まり再びリハビリに頑張る父は、リハビリ施設に入所することになった。


なるべく、母では無く私と私の彼女に父の用事を頼むようにした。


母は、父の介護の疲れか、一人になってよかったみたいだった。


父は、私にあれこれ持ってきてくれとほぼ毎日会社帰りに用事を頼んだ。


服なんかは、施設に断られるくらい沢山買った。


買っても買っても、私を呼び出した。


そして、何度も届けた。


でも、そんな父の気持ちが痛いほど判った。


父は、私が来てくれなくなるのが“怖かった”んだろう・・・

はっきり言うと、

私が“養子”だから、自分が動けなくなり、寝たきりになったら“捨てられる”とでも思ったんだと私は思った。


そう、それは私が子供の頃、両親を帰りを待つのに、泣いていた気持ちと同じだ気持ちなんだ!と思った。


だから、私は出来るだけ寂しくさせない様に、父の言うとおり出来る限り何度も父の元へ通った。


父に一度だけ・・・言った言葉がある。

「お父さん、安心して下さいね。俺は、言葉にならないくらい感謝しています。ここまで育ててもらって、どうしてお父さんの事ほっとけるだろうか?いつでも電話して、呼び出してよ!何でも買ってあげるし、俺、家買ってみんなで又、一緒に住もうね!」


父は、うっすら笑顔で分かってる」と言った・・


父は、入院する前に良く言ってた言葉がある。

「おまえが結婚したら、私たちの面倒は見なくてもいいからね。幸せに暮らしなさい・・」とね。


涙が出る・・・


世間では“介護”の事件や、揉め事があるが為に、私が“結婚”出来なくなるのと心配する両親・・・


私は、改めて絶対に両親を面倒見ると心に誓った。


そして、私と一緒に両親を面倒見てくれる人を探さなければいけないと思った。


続きます。



こんにちわ。

皆様、暖かいコメントありがとうございます。


27歳の誕生日、私は両親に呼ばれ実家に向かった。


考えれば、私は27歳まで親に誕生日を祝ってもらっていた。

ただ、高齢な両親の親孝行の一つのつもりで・・・

いくつになっても“子が可愛い”って言葉があるからだ。

誕生日は、家族で“ご飯”を食べに行くのが“家の慣わし


ただ、その日は違っていた。


実家に入ると、いつもと雰囲気が明らかに違う。


母は、なんだかヨソヨソしくなっている。


脳裏の片隅から、聞きたくない事が頭に広がる。


ただ、それを伝える“両親”の方がもっと辛い事だと瞬時に理解した。だから、余裕ある顔で聞いた・・・

「どうしたの?あらたまっちゃって(笑)」


両親は正座して、私を座らせた。

父が、

この先、おまえが家庭を持つ事になったら、判ってしまう“”があるんだ。


父が、「ごめんな

頼むから、謝らないで!って気持ちになった。

もう、訳判らなった。殆ど父と母の言った事が聞こえないが・・・・わかる事がある・・


そう、俺が“養子”だということ。


それが、“事実”ということ。


でもそれは、俺はうすうす気付いてた事じゃないか!

私は、父が大事に隠していた、父の血液型のカードを見てしまっていたからだ。父はA型だ。でも奇跡的に私が生まれても何の不思議も無いと自分に言い聞かせ、いつか言われても、笑って“ありがとう”って言おうと決めていた事だったじゃないか!と自分を叱った。

でも、むりだ。


戸籍を見せて貰った瞬間の時だった。

走馬灯って言葉がある。

死の淵になると、一瞬で甦る様々な過去

私は、そう言われている状況になったの今でも覚えている。

私の“思い出”に、生みの親の記憶は無い・・・

俺は・・何者なんだ?

涙が止まらない・・・

まるで生きてきた人生を否定されているかのようだった。

俺は、両親の親戚の前で、息子を演じてたのか?


そして、両親は生んでくれた両親の住所と連絡先を渡してきた。

逢いたいだろう?いいんだよ・・気にしないで・・

精一杯の“親の強がり”

お前は、7人兄弟なんだぞ!だんだん、親父に似てきたな!って・・・俺は、やめてくれ!聞きたくない!

でもどんだけ、両親が苦しいのかその場で判った。

俺より、何倍も苦しいのは“親”だって事。


父は、私が赤ちゃんの時に泣くと、会社からすっ飛んで帰ってくるほどの親ばかぶりだったと年中親戚や、知り合いから話を聞いている。


父は涙を堪え、母は泣きじゃくっていた・・・

母が泣くのを見たことが無い・・それが、泣きじゃくるほど泣いていた。ごめんね・・・ごめんね・・何度も繰り返していた・・


その時に、両親に言えた言葉は・・・・


「ここまで育ててくれて“ありがとう”」の精一杯言えた言葉だった。


こんな俺でごめん・・・我侭・甘え・屁理屈ばっかだったね俺・・


そして・・

俺は、お父さんとお母さんに親孝行を出来るだけさせて頂きます。これからも、今までどおり宜しくお願いします。


と、頭を下げた。その時に言えた、心からの言葉だった。


私は、生まれは大阪で6人兄弟の末っ子だったようだ。

当時、生みの親は生活苦のため周囲に育てられないと嘆いていた所に、子供が欲しい両親が面倒みたいと言ってくれたと語ってくれた。その後に、妹が生まれているのが判った。


聞いたときは、地に足が付かない感じだったが、両親に対して、

更なる感謝で一杯になったのを覚えいる。


この日の私の誕生日を境に、私は両親からご飯を招待してもらのをやめ、毎年育ててもらったお礼として、私が招待すると決めた。


昔、両親が喧嘩をしているのを見て、“絶対にお父さんとお母さんみたいな親になりたくない”と言ってたのが恥ずかしく、愚かな事を言ってしまった事がある。


告げられた日を境に、こんなにも可愛がってくれ、真剣に怒ってくれ、楽しませてくれ、自分の子供以上に育ててくれた!そして、いろんな時間を共有出来た、今は“慈愛に溢れていた、亡き両親”みたいになりたい!と思った。



続きます。