メモを整理していたら、2年前に書いていたメモを見つけた。「いつか主要テーマとして考えてみたい」と思っていたものだったが、しばらく寝かしている内にそのままになっていたものである。こういった観点から「財政」と「納税の義務」そして「経済政策」を論じたものはあまりないのではないかと思うので(もしあったら教えてください。読んでみたいです!)、たまたまこれを読んだ人がさらに敷衍していってくれるという形で貢献できればと思い、ここに掲載するものです。
貨幣や経済学について研究を深めていくにつれて強まってくる思いがある。それは、「社会保障を充実するためには増税という形での国民負担が避けられない」という説明のいかがわしさである。
国民各々が各々の経済活動によって(ほとんどは「その稼ぎによって」という意味で言われることがほとんど)得た所得に応じて、貨幣的な負担をし、それによってまかなわれた財源によって社会保障事業が可能となるというモデルは、次の2点から問題のあるものである。
ひとつは、貨幣の性質の観点から。もうひとつは、経済政策の重要なオプションとしてある財政政策という観点からのものである。
まず、後者の経済政策の重要なオプションという位置づけにある財政という観点から述べる。いわゆる国家事業を行うための原資となる「財源」については、3つあることは前に述べた。①租税、②国債、③政府貨幣の3つである。そして、財政政策は経済の状態を無視して論じることはできない。すなわち、インフレ気味なら財政緊縮(あわせて金融引き締め政策)を実施し、逆にデフレ気味なら積極財政政策(あわせて金融緩和政策)を実施しなければならない。それは、市場の需給バランスをとることを目的としている。不況の原因はそのバランスが崩れるところから起こるという経済学の知識に基づいたものだ。2009年の日本のように、デフレ経済が進行中であるときには、減税を行い(もしくは租税の累進度見直し富裕層から貧困層への分配の度合いを大きくし)、国債や政府紙幣の発行によって確保した貨幣を市場に潤沢に供給し有効需要を大きくしてやらねばならない。
租税負担をする国民の意識には、「自分の稼ぎ」「自分の貢献に応じた取り分」からの強制徴収という感覚がある。実際、租税はその「強制性」という性質を持つが、それはそのとられた国民の「貢献分」からの徴収ということではないということには注意を要する。それは、所得というものが、その貢献の度合いに応じて分配されているという事実はどこにもないからだ。
「貢献した」という意識は、「世の中にそれだけの価値を生み出した、または提供した」からこれだけの所得が与えられた(獲得できた)のだといいたい気持ちはわかるが、そのような事実をそのまま信じられるほど私はナイーブではない。この議論については、すでに成果主義をめぐる今日のブームを批判的に振り返ったときに議論していることであるので、ここでは繰り返さない。また、「価値」と「貨幣」の関係についてもすでに議論しているのでここでは繰り返さない。要するに、その人が獲得した所得を正当化するために「貢献度」や「生み出した価値」といったものを持ち出すことはできないということをここでは確認しておきたい。
ともかく、「その人の手元にある所得から強制的に徴収する」のが「租税」だということになる。そうやって租税として所得の一部から徴収されたお金を使って社会保障事業を行うべきだ、というのが「社会保障-租税」の知識体系の議論だ。ところが、この知識の体系を主張する場合、大抵、お金=価値の表現ということを素朴に前提としていることがほとんどで、二重の意味(財政政策とお金の性質という2つの観点)で間違いを含んでおり、深い錯綜を招いている。
貨幣や経済学について研究を深めていくにつれて強まってくる思いがある。それは、「社会保障を充実するためには増税という形での国民負担が避けられない」という説明のいかがわしさである。
国民各々が各々の経済活動によって(ほとんどは「その稼ぎによって」という意味で言われることがほとんど)得た所得に応じて、貨幣的な負担をし、それによってまかなわれた財源によって社会保障事業が可能となるというモデルは、次の2点から問題のあるものである。
ひとつは、貨幣の性質の観点から。もうひとつは、経済政策の重要なオプションとしてある財政政策という観点からのものである。
まず、後者の経済政策の重要なオプションという位置づけにある財政という観点から述べる。いわゆる国家事業を行うための原資となる「財源」については、3つあることは前に述べた。①租税、②国債、③政府貨幣の3つである。そして、財政政策は経済の状態を無視して論じることはできない。すなわち、インフレ気味なら財政緊縮(あわせて金融引き締め政策)を実施し、逆にデフレ気味なら積極財政政策(あわせて金融緩和政策)を実施しなければならない。それは、市場の需給バランスをとることを目的としている。不況の原因はそのバランスが崩れるところから起こるという経済学の知識に基づいたものだ。2009年の日本のように、デフレ経済が進行中であるときには、減税を行い(もしくは租税の累進度見直し富裕層から貧困層への分配の度合いを大きくし)、国債や政府紙幣の発行によって確保した貨幣を市場に潤沢に供給し有効需要を大きくしてやらねばならない。
租税負担をする国民の意識には、「自分の稼ぎ」「自分の貢献に応じた取り分」からの強制徴収という感覚がある。実際、租税はその「強制性」という性質を持つが、それはそのとられた国民の「貢献分」からの徴収ということではないということには注意を要する。それは、所得というものが、その貢献の度合いに応じて分配されているという事実はどこにもないからだ。
「貢献した」という意識は、「世の中にそれだけの価値を生み出した、または提供した」からこれだけの所得が与えられた(獲得できた)のだといいたい気持ちはわかるが、そのような事実をそのまま信じられるほど私はナイーブではない。この議論については、すでに成果主義をめぐる今日のブームを批判的に振り返ったときに議論していることであるので、ここでは繰り返さない。また、「価値」と「貨幣」の関係についてもすでに議論しているのでここでは繰り返さない。要するに、その人が獲得した所得を正当化するために「貢献度」や「生み出した価値」といったものを持ち出すことはできないということをここでは確認しておきたい。
ともかく、「その人の手元にある所得から強制的に徴収する」のが「租税」だということになる。そうやって租税として所得の一部から徴収されたお金を使って社会保障事業を行うべきだ、というのが「社会保障-租税」の知識体系の議論だ。ところが、この知識の体系を主張する場合、大抵、お金=価値の表現ということを素朴に前提としていることがほとんどで、二重の意味(財政政策とお金の性質という2つの観点)で間違いを含んでおり、深い錯綜を招いている。