38、善松寺       長野市妻科216 
    曹洞宗   住職 真田清文師   ☏026-232-1622

            善松寺 

 

39、白鳥山報恩院善敬寺 長野市吉田3-16-16  
    浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来  住職 海野英順師  寺紋州浜
                     ☏026-241-3771 
 開基は塩崎康楽寺の二世法眼浄賀(絵がうまいと言われていた)の二男の浄蓮(親鸞の伝記を書いた人)で、永仁元年(1293)10月、本願寺から山号と寺号を与えられ一宇を建てた。
 浄蓮の祖父・西佛房覚明は、8代海野小太郎幸親の子で、小県郡海野庄に一宇を建立した。
 西佛房の子に、浄賀と浄宣がおり、浄賀の系統が塩崎康楽寺となり、浄宣の系統が東町康楽寺となった。
 善敬寺は、古くは善教寺と書いていた。
 応永4年(1371)本願寺3世覚如の著作「本願妙」を、その子・存覚から書き写して授与されている。
 天正5年(1577)における織田信長の石山合戦の時、当国の本願寺末寺および門徒25カ寺が康楽寺の2百10俵を筆頭に、それぞれ兵糧米を寄進した。その中に、当寺も10俵1斗のコメを本願寺に送っている。
 寺には石山本願寺を建立した蓮如の子・実如や、その孫・証如の花押のある「御文」等も現存している。
 四囲には堀がめぐっていたが、慶長年間に長沼街道が整備された。樹齢900年と言われる、長野市天然記念樹の「大いちよう」がある。
 前住職は海野浄英師。
 寺内に信行寺(右奥)・本覚寺(左入口)・浄専寺(左奥)・正宗寺の4寺を抱える浄土真宗がある。

          善敬寺

37、大岩山普願寺  須坂市大字小山(南原町)353   
   浄土真宗 住職 業田照賢師             
   副住職 業(ぎょう)田(た)昭(しょう)映(えい)師   ☏026-245-0305
 善光寺に匹敵する敷地で約5,000坪ある、檀徒は1,500戸、文化活動も熱心で、「故植木ひとし・さだまさし」の催しを開き平成25年には「中村美津子」の演歌を楽しんだという。
 鎌倉時代に埼玉県秩父で催されたのが始まりという。南北朝時代に本郷付近に移り、正和3年(1314)に本願寺覚如上人より寺号「普願寺」を賜り、文明5年(1473)に現在地に移った。
 元和3年(1617)には須坂藩主が陣屋を完成するまで仮宿として利用するなど関係が深かった。また須坂の豪商田中家の菩提寺として多くの寄進を受けている。
 現在の本堂は寛保2年(1742)に着工、延享4年(1747)に完成され、須坂を代表する寺院建築として平成4年に鐘楼(嘉永4年(1851建築))と共に須坂市指定有形文化財に指定されている。
 本堂の大工棟梁は越後国三島郡本与板村の丸山武兵衛である。鐘楼は亀原和田四郎嘉博作である。

           普願寺

35、白鳥山正定寺 長野県上水内郡飯綱町赤塩4400 
  浄土真宗大谷派  住職 中村秀宝師  寺紋 州浜  
 現在の18号線より西側に、遥か離れたところに位置しているが旧高坂村である。
 この村は、地勢が西と南を高い山に囲まれ北に傾斜しているため、この地は天候不順になると田畑は、結実せず農民は難渋を強いられたという。
 この地に寺が開基され存続している訳は、古くからの交通の要衝であったこと、つまり越後から善光寺へと、飯綱山麓を経て戸隠へ通ずる古道として通じていたからであろう。
 永正5年(1508)、塩崎村康楽寺を浄祐5男祐圓が開基し、吉田村に移して道場を建立した。
 寛文3年(1663)、僧祐圓が跡地へ寺堂を創建し、白鳥山正定寺とした。
 延享2年(1745)高坂へ移し、寺堂を再建した。
 僧祐圓は、8代海野信濃守幸親の二男幸長(大夫房覚明)が康楽寺を開基し、2世浄賀-3世浄耀-4世浄蓮-5世浄明と続き、12世浄祐の5男が祐圓であった。

 

36、白鳥山高山寺 長野県上水内郡飯綱町平出208 
  浄土真宗本願寺派  住職 20世 白鳥俊生師 
              寺紋 州浜 ☏026-253-7173
 明治天皇・加賀候などの御通行に関する記録など、貴重なものを沢山所蔵されている。
 正中元年(1324)僧祐圓が開山、塩崎郷角間に一宇を創建する。
 開祖の僧祐圓は、8代海野信濃守幸親の二男海野通広(幸長)後に大夫房覚明と称し、その子浄賀、その子浄耀と続き、12世浄祐の五男が祐圓である。
 2世 釋了慶
 3世 釋了念
 4世 釋西念
 5世 釋西了 慶安4年(1651)平出村に移転し寺堂建立する。
 6世 釋了蕙
 7世 釋了閏
 8世 釋祐蕙
 9世 正明院釋覚可
 10世 實明院釋蕙洗
 11世 響誉院釋実道
 12世 響香庵釋貫絞
 13世 釋實文
 14世 智没院釋智筆
 15世 實明院釋晃耀
 16世 明春院釋広範
 17世
 18世 釋広範
 19世 釋岳史 平成29年1月16日午前9時に往生 81歳
 20世 俊生 

           高山寺

 

34、白鳥山報恩院行善寺 長野県上水内郡信濃町古間541 
  浄土真宗大谷派  住職 24世白鳥勲師
            寺紋 州浜・雁がね ☏026-255-2086 
 創建年月不詳、往古に関川杉の沢に行善寺がある。
 承久(1219)の頃、僧行善坊が戸隠山に住む、天台宗にて同山坊中(昔36坊あり)の一つなりと言われている。
 親鸞聖人が戸隠山参詣の際、故あって、その弟子となり、小松氏と一緒に、古間村に来て住み、一宇を建立したと。
 その後、数度の兵火に罹り、廃したり復興したりして僅かに小宇が存在する。
 文政9年(1826)に火災にあい、翌10年(1827)4月に僧秀観禅師、その荒廃しておるのになげき、皆の協力により堂宇を再建する。長野市吉田の善敬寺と親戚になる。
 住職は、21世白鳥宗雄師-22世宗照師-23世宗靖師-24世勲師と続いている。

         行善寺

33、森尾山鎌田院妙福寺 上水内郡飯綱町芋川1517-1  
   浄土真宗大谷派 本尊 阿弥陀如来  住職 中殿秀晴師 寺紋は州浜
       前住職 海野浄英(善敬寺兼務)    ☏026-253-2223
 下総国(現在の千葉県市川市)の庄司・鎌田兵衛政清の嫡子・鎌田政守が、常陸国稲田(茨城県笠間市)において、専修念仏を広めていた親鸞上人の弟子となり、妙善という法名を賜り、下総国鎌田村(現在の千葉県市川市)に一宇を創建して明福寺と称した。貞永元年(1232)兵火にあい、越後国頸城郡箱井村(現在の新潟県頚城郡)に移った。
 その後、永禄10年(1567)、この地を支配していた芋川越前守が、当地に堂宇を造営し、その庇護の下に現在地に移転して、寺号を妙福寺と改めた。
 12世空善の代、寛文4年(1664)火災で堂宇を焼失し、現在の本堂は、その後再建された。
 現在の寺地も芋川氏の居館址内の一部ではないかという。
   
              妙福寺

30、正念寺   長野県飯田市中央通2-9    
   浄土真宗本願寺派 住職 白鳥祐祥師

            正念寺

 
31、妙正寺 長野県飯田市大字豆木5203     
   日蓮宗 住職 望月龍昇師   

          妙正寺

29、福聚山広田寺 松本市会田566 
   曹洞宗 本尊 木造阿弥陀如来坐像  寺紋 六連銭 
   現住職26世真田広雪師      ☏0263-64-3802
 虚空蔵山の南麓に位置し、旧会田宿の北側で会田小学校を少し登った殿村の地にあり、雄大な山並みの景観が望める。
 鎌倉時代に、海野氏系の岩下豊後守(11代海野幸継の二男会田次郎幸持が、会田岩下氏となる)が、この地を領しており菩提寺として創建された。
 小笠原家の菩提寺である広沢寺(小笠原家の菩提寺)の4世雪江玄固が中興開山。はじめ知見院と号したが、のち地名から知見寺と称し、天文年間(1532~54)に現在地に移して広田寺に改めたという。前住職25世真田照禅師

           広田寺

 現在の本堂は、宝永2年(1705)大工・重右衛門源七により再建され、天明3年(1783)に棟梁・枡屋広七によって入母屋造り茅葺の山門が造られた。
享和3年(1803)棟梁・幸介により改築される。『広田寺の由緒より』
詳しくは「広田寺」検索して御覧ください。

28、西牧山真光寺 松本市梓川1918 
   曹洞宗永平寺末 本尊 阿弥陀如来
       住職  秀晴師 ☏0263-78-4662 
 梓川地区上野にある真光寺は「上野のお庚申さま」と呼ばれ親しまれているお寺で、「信府統記」によると、高野山金剛頂院の末寺で建仁年中(1201~4)に創建、天文15年(1546)大檀那・滋野讃岐守貞兼(法名海厳淵成了源大居士)が中興し開基している。
 滋野氏とは、東信濃における古代からの氏族で、平安時代に東信地方から移住してきた大伴氏の一族で、中世西牧郷の地頭主として住吉庄及び旧梓川村の山麓地域を支配した豪族で古幡牧を経営していた。
 国府松本の西方にあったため、西牧とも言われる。地頭主は土地の名をとって西牧氏と称すると言われている。
 木造阿弥陀如来坐像と両脇侍像と聖観世音菩薩像(左)、勢至菩薩像(右)がある。阿弥陀如来坐像は、純粋の鎌倉様式の男性的な堂々たる仏像である。佐久市望月の福王寺の阿弥陀如来像も建仁3年(1203)の作で、ほぼ同じような作柄である。勢至菩薩像は、中尊の阿弥陀如来像とほぼ同じころの製作と思われるが、藤原様式の女性的な作である。聖観世音菩薩像は、室町時代末の製作で、藤原様式を真似ているが、特に顔は江戸時代の仏像によく見られる面相になっている。

    真光寺阿弥陀如来坐像

 昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されて、当地方の逸品である。
 鎌倉時代初期に滋野一族の安泰を願い造られ、阿弥陀如来坐像の像内背部には、「奉造立阿弥陀如来一体并に菩薩像二体、信心大檀那滋野兼忠女大施主橘氏……(略)……建仁3年(1203)2月10日大仏師僧□海、仏師僧栄海」と墨書されている。
これにより、仏像の大施主橘氏は滋野兼忠の娘であることがわかり、滋野氏の勢力が安曇地方にまで及んでいたことがわかる。〈安曇野市教育委員会より〉

            真光寺

26、西生寺  松本市大字島立字北栗3932   
  浄土真宗本願派  住職 海野彰師 
   前住職 海野乗昭師    ☏0263-47-0938
 極楽寺の隠居寺として、寛永14年(1637)6月、善性和尚創建する。


27、性徳山洞光寺 松本市刈谷原町692 
  高野山真言宗 本尊 薬師如来  住職 松本諦宗師  ☏0263-64-2776
 淳和天皇の天長年中(824~33)、弘法大姉の開基で、自作薬師如来を本尊として安置した。
 養和年中(1181~2)木曽義仲北国下向の折、当山へ参拝して、自ら兜を石上に置き戦勝の祈願書を自署して奉納し、倶利伽羅峠にて大勝を得た。境内には兜石と称している石が残る。
 その後、12代海野小太郎幸春及び五男刈谷原五郎(荒神尾城主)及び鷹住根の城主・太田弥助等の祈願所となり大いに崇敬された。
 天文21年(1552)8月10日、上田原合戦のおり、鷹住根落城と共に武田方の兵火により、講堂・庫裡。倉庫等を焼失、本堂の什器等に至っては大半灰燼となった。
 天正5年(1577)時の住職・憲勤は、檀信徒の浄財を募って、ようやく再建された。憲勤は紀州高野山三味院より法流継承して、中興の祖と称されている。
 戦国時代の戦史に残る刈谷原の城は、善光寺街道苅谷原宿の背後にあり、洞光寺墓地には武田勢と戦って戦死した城主・太田資忠の墓碑がある。
 寺宝には、県文化財に指定されている、応永13年(1406)に描かれた八大高祖の絵像8軸がある。これは河内国錦部郡の観心寺榎本坊からの伝来である。〈『信濃宝鑑』より〉

      洞光寺

25、北林山西方院極楽寺 松本市深志2-4-27 
    浄土真宗本願派 本尊 阿弥陀如来 住職 27世 海野暁光師
                         ☏0263-35-1753 
 寺伝によると、開基の海野三郎広重は、親鸞聖人の弟子となって、広専坊と名のり、小県の海野の里の廃寺を再建して極楽寺とした。
 蓮如上人徒弟に7世蓮智。後、11世了専のとき、武田信玄の命によって、永禄3年(1560)松本市島立の北栗へ移った。
 12世了専。14世祐専。
 松本城主・石川康長は、文禄2年(1593)に、松本城下の経営の一環として、寺を北栗の地から、女鳥羽川の南(旧本町1丁目)へ移した。しかし、水野氏の代の、明暦2年(1656)に火災により焼失したので、現在地へ移った。
 松本藩主・水野忠直が寺に参詣した折、大門が本町側にないことを不便に思い、本町側に道を開け大門が造られたのは、元禄10年(1697)である。
 明治21年(1888)1月、寺から出た火は、折からの南風にあおられて大火となり、南深志の町々を焼いた。
 現在ある入母屋造りの鐘楼は、この時の火災をまぬがれた建物で、安政5年(1858)の建立で、鐘は松本の鋳物師田中吉繁の元禄12年(1699)の作であったが、戦時中に供出され、現在の鐘は文化勲章受章者香取秀真・正彦父子の作である。
 25世海野一正師。
 昭和26年(1951)、前住職海野一生師は境内に深志保育園を設立し、昭和45年(1970)には、念願の本堂を再建した。

        極楽寺