私は小さい頃からずっとママと過ごす時間の方が多かったけどパパが大好きなパパっ子でした。高校生になってもパパにハグしたり膝枕してくつろいだり本当に子どものまま大きくなっただけの甘えん坊でした。ママにも妹にも甘えることはたまにはあったけど、やっぱりパパがいる時はずっとパパにべったりでした。私はパパの丸くてふわふわなお腹が大好きだった。いつもみんなで触って笑ってたの思い出すな…それにパパの香水をつけてない時の匂いはどこの男の匂いよりも1番落ち着いてずっと好きな匂いでした。パパは怒ると怖いけれどよく笑わせてくれてすごく優しい人でした。私がバイトや学校で人間関係が上手くいかない時はママの2番目に相談を聞いてくれていつも励ましてくれてよく泣かせてくれた。おかげで、少し考えが変わった。クラスの怖い女の子に悪口言われてずっと怯えてた自分から気にしないで前を向けるようになった。毎回、陰口を言われては怒鳴られて、店長のパワハラで苦しかったバイトに自分から辞めるとハッキリと言えた。パパがあの夜、私にそんなバイトやって辛い思いばっかりしてるんじゃ頑張ったって苦しいだけだから辞めたらいいのにって言ってくれたから今があるのかな。その後から何故かパパは黙り込んだりストレスを溜め込むようになってたのは私は気づくことが出来なかった。4人みんなで行きたかった母国にパパだけを置いて帰ることになった時、正直とても不安で心配で何かあったらどうしようと思ったのは本当だ。出発日はみんなで早起きして家から出て、お昼にはいつもよくみんなで食べてたすき家を食べて、パパは車で私たちを空港まで送ってくれて、チェックインの時まで一緒にマックを食べたりしてずっと一緒に居てくれた。ボディーチェックに行く前の別れ際にパパはママと妹と私に「パパのことは心配しなくていいからね!無事に着いたら連絡してね!」と言ってぎゅっと強いハグをしてくれた。その時、私はすごく泣きそうになったけど堪えて、笑って「気をつけてね」と言った気がする。妹は泣いてしまっていて、その時よく分からないけど笑顔でバイバイするんだから泣かないよと私は言った。パパも泣きそうになってた、でも私はパパが泣いている姿を見たことがないと思うくらいパパが泣いた姿は思い出せない。パパは荷物確認する所までもこっちを見てくれていた。パパは私達の姿が見えなくなるまでずっとずっと太陽みたいな笑顔で大きく手を振ってくれた。あの姿が最後だと誰も思ってもいなかったと思う。家族みんなで食べた最後のすき家、マック。家族みんなで最後に乗ったパパの車。パパとした最後のハグ。パパの笑顔。心に脳裏に残る大好きなパパの姿が忘れられません。誰も先のことは分からないという話は本当だった。私たちは7時のフライトを待合室で待っていた。飛行機に乗ったあとは、今パパもう家に着いたかなとかそんなことを言いながら夜を過ごした。私は、出発日の前の日の夜に涙を流しながらパパにスマホで手書きの手紙を書いておいていた。実は、空港に着く前に既にパパのタブレットに送信済みだった。いつ返事が来るかなと待ち遠しかった。飛行機の旅はとても長く、楽しかったこともあったし、初めて経験することもあって、世界はとても広かった。着いた頃には、環境に慣れないこともあり疲れがたまってママも妹も私もあまりいい気分ではなかった。空港でパパの御家族やママの御家族が歓迎してくれた。ママの方の実家に着いた頃はもう夜の8時ですぐ寝る支度をした。後日から疲れが溜まったからかママと妹は体調を悪くしてしまった。妹は熱が下がらないことが続いて大変でした。その次の日に、WiFiを繋げることができた。パパからは返信が届いていた。無事に着いたら連絡して下さいとの返事だった。私は無事に着いたということ、みんなが空港で歓迎してくれたということ、家にいるということ、そしてママと妹のことも話してしまった。私は心配させることを話してしまったということをとても後悔している。パパは何故か既読のスタンプだけを送ってくれた。キャリーケースをパッキングしてるときに離れててもビデオで話せるもんねってパパちゃんとビデオ通話しようねってビデオ通話のやり方も教えてあげたのに。いつになっても来ない。私はパパがビデオ通話したら泣いちゃうから気遣ってくれてるんだと思ってた。おばあちゃんもママのお姉さん達も優しくて、犬も人懐っこくて可愛く、環境に慣れ、食べ物も美味しく感じて、楽しくなってた。3日後、体調が少し良くなり、パパの実家に行くことになった。軽く朝食を頂いてから、お昼ご飯も頂いて、写真を撮って、ずっとしまって置いていた昔の写真やアルバムなどをみんなで見返してはパパかっこいい、ママ美人、美男美女なんだねと呟いてはそれらを持ち帰った。もうこの時、パパは1人高熱で苦しんでいたということを誰も知らずに。帰ったのは夜ご飯の時だった。いつものようにお風呂に入り、ご飯を食べ、寝た。その夜、朝の5時頃だった。急に鳴り響くママのスマホ。パパの仕事の人からだった。その人は、仕事を誰が休んだ時朝夜関係なくいつもパパに電話をし呼び出していたから家族みんなしてその人のことは今でも好きになれない。出発日の前の夜にも散々パパに電話をしてきたのに、なんでママにまで?とみんなで疑っていた。なんだろうと思い、ママは電話に出た。その人の声がした。「○○さんが倒れて今救急車で病院まで運んでいる。できるだけ早めに帰ってきて欲しい」と言ってた。私は頑張りすぎたんだと思った。よくドラマなどで観る1人になった時に無理して働いて体調を崩すやつだ。お祈りしようってママに言われてみんなでお祈りしに行った。その後また今度は知らない番号から電話がかかってきた。病院の医師の方からだった。「循環器科の○○です。○○さんの奥さんでよろしいですか?旦那さんは急性心筋梗塞で心停止していてできる限りのマッサージを行いましたが、胸の色がもう黒くなってきていて、これ以上電気を通してしまうと体を傷ついてしまうだけです。」といいママは「もう助けられないの?」と聞いた。「もう心臓が止まってかなり時間が経っています。最後のマッサージにしても宜しいでしょうか」と聞こえた時、私は頭が混乱するばかりで「なんで」と何度も言い泣き叫んでしまっていた。私は父が亡くなる1週間前に消防署で救急救命講習を受けていたからだ。私がそばに居たら助けられたかもしれないのに、あんなに元気な笑顔で手を振ってたパパの姿が思い浮かべられた。ずっと自分を責めていた。その後、警察から電話がかかってきたりして正直、嘘のモニタリングでもしているのかと思おうとしていた自分がいて
受け止めたくなかったのだと思う。みんなが涙を流す中、ママだけは何故か時が止まっているかのように涙も流れていなかった。あとから聞くと驚くことばかりが起こっていた。ママのお姉さんとのチャットでは私たちを心配してどうかを聞くメッセージが残っていたり、撮られてパパに送られていた写真に安心の言葉も残されていた。今こう考えると1人高熱で私たちの笑顔で元気をもらおうとしてたのかなと考えることができる。パパのお母さんは何度も電話をしたけれど出てくれなかったとあとから言っていた。1人辛かったのになぜ誰にも言えなかったのか、それは昔からある頑固な性格だと思った。パパはずっとパパだったな。できるだけ早く帰れるようにフライトの日程変更の手続きをしている間、パパはずっと冷凍状態にされていた。私達はパパが亡くなってから1週間後に帰国した。私は最後まで空港に待っているはパパだと心の中では信じていた。でも待っていたのは電話をしてくれた仕事の人だった。仕事の作業着のまま立っていた。その人は会社の車で家まで私たちを送ってくれた。パパの運転でパパの車で帰るはずだったのにな。と考えると涙が視界をぼやけさせていた。家に着くとママの車もパパの車もいつものように止まっていた。ドアを開けると消毒のような匂いがしていた。何も変わらない玄関。リビングに入るとソファもカーペットもぐちゃぐちゃになっていた。ソファにはパパの枕と布団とパパのTシャツがあった。パパはソファで1人苦しんでいたんだ。と誰もが見てそう考えると思う。毎日みんなでご飯を食べていたテーブルには袋に入った沢山の薬と体温計、カビの生えてしまった贅沢みかんゼリー、そして、いつもの場所に飲み干された缶ビール、パパのタブレット、空港の資料など色々とぐちゃぐちゃに置かれていた。薬と一緒に入っていた紙には異常なしと書かれていた。私はそれがどうしても許せなかった。高血圧の人が高熱だしてるのに異常なしはありえない。どうして可能性を考えてもう少し詳しく検査をしなかったのか。元からあのクリニックの先生は愛想が悪くて毎回ちゃんとした検査をしてくれないとは思ってたからすごく許せなかった。あの日パパはどう過ごしていたんだろう。パパが体調を崩す時はいつも2階で寝てたというのしか知らない。パパと私と妹が一緒にインフルエンザになった時はパパが自分と私達の看病してくれてたのに。パパはあの日1人でどう過ごしていたんだろう。キッチンに行くと洗われていない食器がたくさんあった。いつものパパなら進んでお皿洗いしてたのにな。それくらい辛かったんだね。炊飯器のご飯はカビが生えて水っぽくなっていて色も臭いもひどかった。自分でご飯炊いたのに食べれなかったのかな、食欲がなかったのかな。いつものパパだったらお皿いっぱいにモリモリ食べるのにな。冷蔵庫の食材もほとんどがダメになっていて、出発日の帰りに仕事の友人から貰うって言ってた大きい釣り魚も冷凍されていた。食べれなかったんだね。パパは釣りが大好きでした。すぐ近くに買い物袋があった。そこには通気性がいい服が入っていた。パパがよく作るパンに使う粉もあった。パン作ろうとしてたんだね。洗面台にはパパのパンツがあった。なにがあったか想像はできる。洗い物カゴには洗われていない服がたくさん入ったままでした。パパのそばにいてやりたかった。パパを救いたかった。今思っても何も変わらないのは分かってる。知ってるけど考えてしまう。あとあと気づくのだけれど、パパの寝室のエアコンは動かなくなってしまっていました。病院から遺品として金色の結婚指輪、差し歯、診断書、真ん中に切り裂けられたパパのTシャツといつものジーパンが袋に入っていた。パパは外に出かけてまだお風呂に入ってなかったんだね。本当に亡くなったことを理解したくなくて、少しずつ知られていく一つ一つのことが嫌だった。私たちが落ち着くまでママのお姉さんはずっと寝泊まりして面倒を見てくれた。本当にありがたかった。お葬式には妹と2人で行かないと決めていた。でもお葬式当日、あの日電話をし家まで送ってくれたパパの仕事の人になぜ行かないのかとなぜか厳しく言われた。何を考えているのか、散々パパを過労させて、辛い時パパを助けられなかった、救急車を待つ間に心臓マッサージをしようという考えはなかったのか、考えるとその人が私に言ってきた言葉の意味が分からず、すごく不思議だった。怖かったが、制服に着替えてお葬式に行った。会場には知らない人ばかりの人がいた。パパは本当に頼りにされてたんだなと思うと心が苦しかった。棺が運ばれてきた時まではずっとただただこれは嘘のモニタリングだと思っていたかった。でも始まって、棺の中に花を添える時にママは泣き叫びながら震えた声で「ごめんねごめんね」と言い続けていてそれが私の心を痛ませた。私が花を添える時になり、怖くて怖くてパパの亡くなっている姿を見たくなくて信じたくなくて目をつぶって震えた手で花を添えようとしていた。でも泣くママの背中をずっとさすってくれてたママのお姉さんはそっとそばに来てくれていた。綺麗な顔してるよって言われた。少し目を開けて見てみると本当に綺麗な顔で本当にただ寝ているだけのパパにしか見えなかった。でも唇は少し開いていて、本当に凍っていたんだと思えるくらい少し汗みたいに溶けていた。それでも信じたくなかった私はその顔は職人が作ったマスクを違う人が被っているかもしれないと勝手に考えていた。でも仕事が一緒だった人で、私も知る人が数人いて、顔を見ながら泣いてる人がいた。私はなぜかいい気持ちにはならなかった。会社の社長さん、電話してきた人、よく休んでた人、よくお酒に誘ってた人、古くから働いてた人、違う会社に行ってしまったのに来た人、私が小さい頃から仲良くしてくれてた人…仕事関係で来ていた人を見て、私が思ってしまったことは「なぜパパを過労させたんだ、あなたたちが休んだりして遊んだり寝てたりしてる間、パパは朝寝れずに仕事させられたり夜寝れずに仕事させられたり、寝ようとしてる時だってよく呼ばれてた、あなたたちがもっとしっかりしていれば休むことでパパを犠牲にしていなければこんなことにはならなかったのに。」そればかりを心の中で呟いていた。なぜそういう感情が溢れ出したか、それは火葬のためにパパの遺体を焼いている時に、待合室でその人達が笑いながら話したりして迷惑だと思ったからだ。あの人たちはこの日をなんだと思っているのか。私は笑うなと言っている訳では無い。私だって悲しんでいるだけじゃダメだと思ってる。でも大声でゲラゲラ笑うのは違うと思う。私はその人達が笑う姿がとても耐えられなかった。そう思ってる間にあっという間に2時間経ち、焼き終わったと言われた。火葬式が始まった。初めて人の焼かれた骨を見た。パパの骨は少し青くなっているものがあった。なぜなのかはよく分からないけれど、骨が良くなかったのかもしれないと思った。今でもあの匂いは忘れない。パパの骨が壺の中で砕かれ、頭などが入り、蓋をされ、白い箱の中に入り、布をされた。式が終わり、退出する時にママが白い箱を持つことになり、すごく泣いていた。泣きながら歩いていた。私は何も出来なかった。家に帰ってパパの遺骨を置く場所を決めた。花も買った。こんなことになるなんて誰も思っていなかったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。ママに電話をしてきた人からあとから話を聞くと、私達が母国に着いた2日後に体調を崩して会社を休んでいたということ、亡くなる日に苦しいと電話をしていたということ。自分が着いて、救急車を呼んだが消防署に電話をかけ直して欲しいとの言われてかけ直した時にパパが息苦しそうに頑張って住所を言っていたと。でも救急車がなかなか家にたどりつけず、自分は外に出たと。救急車を呼んでから10分がかかったと。私はその話を聞いている時、怒りしかなかった。なぜ最初から119の消防署に電話をかけなかったのか、なぜ救急車を呼んでいる間パパのそばを離れたのか、倒れる前に深呼吸させたり、倒れた時に心臓マッサージができなかったのか。今でも、あの人がなぜちゃんと救護ができなかったのか、なぜ行動できなかったのかどうしても理解できない。パパの体がボロボロになるまで散々利用して、なのに助けることが出来なかった?あなたが代わりに出勤してればよかったのに。パパの腰がボロボロになっていたのは重労働のせい。パパがストレスを抱えて頭が良く痛くなっていたのも仕事のせい。訴えてないけれど、過労死の疑いでパパが亡くなったのは今でも否定できない。あの人たちを見かけるだけで、あの人たちに似た人を見かけるだけで胸が苦しい。パパが亡くなってからもう約8ヶ月が経っている。私はその8ヶ月間に高校生ではきっと経験できないたくさんのことを経験した。それはまるで大人の世界だった。パパが残したカードの解約、銀行の手続き、車の手続き、土地の手続き、相続の手続き、様々なものの名義変更手続き…何度電話をかけたことか、何度銀行に行ったことか、何度市役所に行ったことか、何度東京へ行ったか、何人の人と関わったか、何枚証明書の翻訳をしたか、ママが外国籍で日本語があまり読み書きできないからこそ私がサポートしなければいけなかった。高校生で父の死後の手続きをしたことをよく驚かれてすごいね偉いねと褒められることがある。何もすごくないし何も偉くない。私はパパとママとみんなのために頑張った、ママのかわりに手続きをしただけだから褒められることではない。全ての手続きが完了するまで約4ヶ月がかかった。ママに電話をしたあの人は「大変だと思うから手続きとかは俺に任せて」と言っていたが、1つも手伝ってもらっていない。病院代とお葬式代は会社の方で払っておくと言われていたが何故か請求されていたし、あの会社の人達の考えることがよく分からない。そしてパパは日本にクラスお兄さんが1人いて、そのお兄さんは離れた県に住んでいたけれど、よく再婚した妻と家に来ていた。でも何一つ手続きを手伝おうとはしてくれなかった。お兄さんなのに酷いとしか思えない。元から手間のかかるものには関わりたくないような人だとは思っていた。でも自分の弟が亡くなって何もしないというのは1人の家族としてどうかと思う。ありえない。お兄さんは家に来ても、お祈りして数分話すだけで、遠くから来てるのに20分もしないで帰る。いる時はずっと貧乏揺すりしていた。私はあのお兄さんの貧乏揺すりが嫌いだ。顔はパパにすごく似てるのに。性格は全くの反対なんだね。パパだったら絶対家族であろうと友人であろうと仕事仲間であろうと力になろうと行動してたと思うな。こんなにも人間というのは冷たい人ばかりなんだね、こんな世界で私はあっては欲しくない。もっと助け合える、協力し合える人達が増えていって欲しいです。自分勝手で自分のことしか考えられない人は、考え方を少し変えて欲しい。私は大好きなパパを亡くして約8ヶ月が経った今、人を亡くす辛さ、苦しさ、哀しさ。両親の1人が居ないことの寂しさ。人のために行動することの大切さ、人の醜さ、様々なことを感じた。私はパパが背中を押してくれたから、ちゃんと高校を卒業できて、4月からまた学生として頑張ることができる。教習も無事に卒業出来た。パパに私と妹の卒業式見せたかったな。私のスーツ姿見せたかったな。パパも一緒に4人で車乗りたかったな。パパともっと一緒に居たかったな。みんなでたくさんお出かけしたかったな。みんなで美味しいものお腹いっぱい食べていたかったな。パパの手料理もっと食べたかったな。パパのケーキもたくさん食べたかった。私の手料理も食べさせたかった。またみんなで海行きたかったな。パパにも振袖一緒に選びに行って欲しかったな。パパの大好きなお酒、私も成人したら一緒に呑みたかった。いつか結婚する日が来たら一緒にバージンロード歩きたかったな。いつか子供を産んだ時はパパにも孫を見せたかった。パパも一緒に成長を見守って欲しかったな。

考えれば考えるほどパパと一緒にしたかったことは沢山あって、もうできないんだなって思うととても悔しい。私は今でもいつかまたパパに会えることができると信じているし、まだどこか遠くにいていつかまた「ただいま」ってこの家に帰ってくることも想像出来る。
初ブログがこのような内容になってしまって申し訳ないです。
写真は、家族みんなで行ったフラワーパークで最後に撮ったパパの写真です。亡くなってからこの写真を見るとどうしてこんな写真を撮ってしまったんだろうと思うことが多々あります。パパは花を見るのが大好きでした。パパ天国でも元気でね。
受け止めたくなかったのだと思う。みんなが涙を流す中、ママだけは何故か時が止まっているかのように涙も流れていなかった。あとから聞くと驚くことばかりが起こっていた。ママのお姉さんとのチャットでは私たちを心配してどうかを聞くメッセージが残っていたり、撮られてパパに送られていた写真に安心の言葉も残されていた。今こう考えると1人高熱で私たちの笑顔で元気をもらおうとしてたのかなと考えることができる。パパのお母さんは何度も電話をしたけれど出てくれなかったとあとから言っていた。1人辛かったのになぜ誰にも言えなかったのか、それは昔からある頑固な性格だと思った。パパはずっとパパだったな。できるだけ早く帰れるようにフライトの日程変更の手続きをしている間、パパはずっと冷凍状態にされていた。私達はパパが亡くなってから1週間後に帰国した。私は最後まで空港に待っているはパパだと心の中では信じていた。でも待っていたのは電話をしてくれた仕事の人だった。仕事の作業着のまま立っていた。その人は会社の車で家まで私たちを送ってくれた。パパの運転でパパの車で帰るはずだったのにな。と考えると涙が視界をぼやけさせていた。家に着くとママの車もパパの車もいつものように止まっていた。ドアを開けると消毒のような匂いがしていた。何も変わらない玄関。リビングに入るとソファもカーペットもぐちゃぐちゃになっていた。ソファにはパパの枕と布団とパパのTシャツがあった。パパはソファで1人苦しんでいたんだ。と誰もが見てそう考えると思う。毎日みんなでご飯を食べていたテーブルには袋に入った沢山の薬と体温計、カビの生えてしまった贅沢みかんゼリー、そして、いつもの場所に飲み干された缶ビール、パパのタブレット、空港の資料など色々とぐちゃぐちゃに置かれていた。薬と一緒に入っていた紙には異常なしと書かれていた。私はそれがどうしても許せなかった。高血圧の人が高熱だしてるのに異常なしはありえない。どうして可能性を考えてもう少し詳しく検査をしなかったのか。元からあのクリニックの先生は愛想が悪くて毎回ちゃんとした検査をしてくれないとは思ってたからすごく許せなかった。あの日パパはどう過ごしていたんだろう。パパが体調を崩す時はいつも2階で寝てたというのしか知らない。パパと私と妹が一緒にインフルエンザになった時はパパが自分と私達の看病してくれてたのに。パパはあの日1人でどう過ごしていたんだろう。キッチンに行くと洗われていない食器がたくさんあった。いつものパパなら進んでお皿洗いしてたのにな。それくらい辛かったんだね。炊飯器のご飯はカビが生えて水っぽくなっていて色も臭いもひどかった。自分でご飯炊いたのに食べれなかったのかな、食欲がなかったのかな。いつものパパだったらお皿いっぱいにモリモリ食べるのにな。冷蔵庫の食材もほとんどがダメになっていて、出発日の帰りに仕事の友人から貰うって言ってた大きい釣り魚も冷凍されていた。食べれなかったんだね。パパは釣りが大好きでした。すぐ近くに買い物袋があった。そこには通気性がいい服が入っていた。パパがよく作るパンに使う粉もあった。パン作ろうとしてたんだね。洗面台にはパパのパンツがあった。なにがあったか想像はできる。洗い物カゴには洗われていない服がたくさん入ったままでした。パパのそばにいてやりたかった。パパを救いたかった。今思っても何も変わらないのは分かってる。知ってるけど考えてしまう。あとあと気づくのだけれど、パパの寝室のエアコンは動かなくなってしまっていました。病院から遺品として金色の結婚指輪、差し歯、診断書、真ん中に切り裂けられたパパのTシャツといつものジーパンが袋に入っていた。パパは外に出かけてまだお風呂に入ってなかったんだね。本当に亡くなったことを理解したくなくて、少しずつ知られていく一つ一つのことが嫌だった。私たちが落ち着くまでママのお姉さんはずっと寝泊まりして面倒を見てくれた。本当にありがたかった。お葬式には妹と2人で行かないと決めていた。でもお葬式当日、あの日電話をし家まで送ってくれたパパの仕事の人になぜ行かないのかとなぜか厳しく言われた。何を考えているのか、散々パパを過労させて、辛い時パパを助けられなかった、救急車を待つ間に心臓マッサージをしようという考えはなかったのか、考えるとその人が私に言ってきた言葉の意味が分からず、すごく不思議だった。怖かったが、制服に着替えてお葬式に行った。会場には知らない人ばかりの人がいた。パパは本当に頼りにされてたんだなと思うと心が苦しかった。棺が運ばれてきた時まではずっとただただこれは嘘のモニタリングだと思っていたかった。でも始まって、棺の中に花を添える時にママは泣き叫びながら震えた声で「ごめんねごめんね」と言い続けていてそれが私の心を痛ませた。私が花を添える時になり、怖くて怖くてパパの亡くなっている姿を見たくなくて信じたくなくて目をつぶって震えた手で花を添えようとしていた。でも泣くママの背中をずっとさすってくれてたママのお姉さんはそっとそばに来てくれていた。綺麗な顔してるよって言われた。少し目を開けて見てみると本当に綺麗な顔で本当にただ寝ているだけのパパにしか見えなかった。でも唇は少し開いていて、本当に凍っていたんだと思えるくらい少し汗みたいに溶けていた。それでも信じたくなかった私はその顔は職人が作ったマスクを違う人が被っているかもしれないと勝手に考えていた。でも仕事が一緒だった人で、私も知る人が数人いて、顔を見ながら泣いてる人がいた。私はなぜかいい気持ちにはならなかった。会社の社長さん、電話してきた人、よく休んでた人、よくお酒に誘ってた人、古くから働いてた人、違う会社に行ってしまったのに来た人、私が小さい頃から仲良くしてくれてた人…仕事関係で来ていた人を見て、私が思ってしまったことは「なぜパパを過労させたんだ、あなたたちが休んだりして遊んだり寝てたりしてる間、パパは朝寝れずに仕事させられたり夜寝れずに仕事させられたり、寝ようとしてる時だってよく呼ばれてた、あなたたちがもっとしっかりしていれば休むことでパパを犠牲にしていなければこんなことにはならなかったのに。」そればかりを心の中で呟いていた。なぜそういう感情が溢れ出したか、それは火葬のためにパパの遺体を焼いている時に、待合室でその人達が笑いながら話したりして迷惑だと思ったからだ。あの人たちはこの日をなんだと思っているのか。私は笑うなと言っている訳では無い。私だって悲しんでいるだけじゃダメだと思ってる。でも大声でゲラゲラ笑うのは違うと思う。私はその人達が笑う姿がとても耐えられなかった。そう思ってる間にあっという間に2時間経ち、焼き終わったと言われた。火葬式が始まった。初めて人の焼かれた骨を見た。パパの骨は少し青くなっているものがあった。なぜなのかはよく分からないけれど、骨が良くなかったのかもしれないと思った。今でもあの匂いは忘れない。パパの骨が壺の中で砕かれ、頭などが入り、蓋をされ、白い箱の中に入り、布をされた。式が終わり、退出する時にママが白い箱を持つことになり、すごく泣いていた。泣きながら歩いていた。私は何も出来なかった。家に帰ってパパの遺骨を置く場所を決めた。花も買った。こんなことになるなんて誰も思っていなかったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。ママに電話をしてきた人からあとから話を聞くと、私達が母国に着いた2日後に体調を崩して会社を休んでいたということ、亡くなる日に苦しいと電話をしていたということ。自分が着いて、救急車を呼んだが消防署に電話をかけ直して欲しいとの言われてかけ直した時にパパが息苦しそうに頑張って住所を言っていたと。でも救急車がなかなか家にたどりつけず、自分は外に出たと。救急車を呼んでから10分がかかったと。私はその話を聞いている時、怒りしかなかった。なぜ最初から119の消防署に電話をかけなかったのか、なぜ救急車を呼んでいる間パパのそばを離れたのか、倒れる前に深呼吸させたり、倒れた時に心臓マッサージができなかったのか。今でも、あの人がなぜちゃんと救護ができなかったのか、なぜ行動できなかったのかどうしても理解できない。パパの体がボロボロになるまで散々利用して、なのに助けることが出来なかった?あなたが代わりに出勤してればよかったのに。パパの腰がボロボロになっていたのは重労働のせい。パパがストレスを抱えて頭が良く痛くなっていたのも仕事のせい。訴えてないけれど、過労死の疑いでパパが亡くなったのは今でも否定できない。あの人たちを見かけるだけで、あの人たちに似た人を見かけるだけで胸が苦しい。パパが亡くなってからもう約8ヶ月が経っている。私はその8ヶ月間に高校生ではきっと経験できないたくさんのことを経験した。それはまるで大人の世界だった。パパが残したカードの解約、銀行の手続き、車の手続き、土地の手続き、相続の手続き、様々なものの名義変更手続き…何度電話をかけたことか、何度銀行に行ったことか、何度市役所に行ったことか、何度東京へ行ったか、何人の人と関わったか、何枚証明書の翻訳をしたか、ママが外国籍で日本語があまり読み書きできないからこそ私がサポートしなければいけなかった。高校生で父の死後の手続きをしたことをよく驚かれてすごいね偉いねと褒められることがある。何もすごくないし何も偉くない。私はパパとママとみんなのために頑張った、ママのかわりに手続きをしただけだから褒められることではない。全ての手続きが完了するまで約4ヶ月がかかった。ママに電話をしたあの人は「大変だと思うから手続きとかは俺に任せて」と言っていたが、1つも手伝ってもらっていない。病院代とお葬式代は会社の方で払っておくと言われていたが何故か請求されていたし、あの会社の人達の考えることがよく分からない。そしてパパは日本にクラスお兄さんが1人いて、そのお兄さんは離れた県に住んでいたけれど、よく再婚した妻と家に来ていた。でも何一つ手続きを手伝おうとはしてくれなかった。お兄さんなのに酷いとしか思えない。元から手間のかかるものには関わりたくないような人だとは思っていた。でも自分の弟が亡くなって何もしないというのは1人の家族としてどうかと思う。ありえない。お兄さんは家に来ても、お祈りして数分話すだけで、遠くから来てるのに20分もしないで帰る。いる時はずっと貧乏揺すりしていた。私はあのお兄さんの貧乏揺すりが嫌いだ。顔はパパにすごく似てるのに。性格は全くの反対なんだね。パパだったら絶対家族であろうと友人であろうと仕事仲間であろうと力になろうと行動してたと思うな。こんなにも人間というのは冷たい人ばかりなんだね、こんな世界で私はあっては欲しくない。もっと助け合える、協力し合える人達が増えていって欲しいです。自分勝手で自分のことしか考えられない人は、考え方を少し変えて欲しい。私は大好きなパパを亡くして約8ヶ月が経った今、人を亡くす辛さ、苦しさ、哀しさ。両親の1人が居ないことの寂しさ。人のために行動することの大切さ、人の醜さ、様々なことを感じた。私はパパが背中を押してくれたから、ちゃんと高校を卒業できて、4月からまた学生として頑張ることができる。教習も無事に卒業出来た。パパに私と妹の卒業式見せたかったな。私のスーツ姿見せたかったな。パパも一緒に4人で車乗りたかったな。パパともっと一緒に居たかったな。みんなでたくさんお出かけしたかったな。みんなで美味しいものお腹いっぱい食べていたかったな。パパの手料理もっと食べたかったな。パパのケーキもたくさん食べたかった。私の手料理も食べさせたかった。またみんなで海行きたかったな。パパにも振袖一緒に選びに行って欲しかったな。パパの大好きなお酒、私も成人したら一緒に呑みたかった。いつか結婚する日が来たら一緒にバージンロード歩きたかったな。いつか子供を産んだ時はパパにも孫を見せたかった。パパも一緒に成長を見守って欲しかったな。

考えれば考えるほどパパと一緒にしたかったことは沢山あって、もうできないんだなって思うととても悔しい。私は今でもいつかまたパパに会えることができると信じているし、まだどこか遠くにいていつかまた「ただいま」ってこの家に帰ってくることも想像出来る。
初ブログがこのような内容になってしまって申し訳ないです。
写真は、家族みんなで行ったフラワーパークで最後に撮ったパパの写真です。亡くなってからこの写真を見るとどうしてこんな写真を撮ってしまったんだろうと思うことが多々あります。パパは花を見るのが大好きでした。パパ天国でも元気でね。