長年にわたり書いてきた文章が、このたびようやく書き終えることができました。全部で44万字、440ページにも及ぶものです。これまで50年にわたり専門としてきた「中国の経済学」についてのものです。題名は『20世紀 中国経済学者の群像』です。中華人民共和国が成立する前から活躍してきた一部のマルクス経済学者のさまざまな記録です。おおよそ1990年に入る前のことになります。現在は、ようやくその次の時代のことをやりはじめたところです。こんなことをやっている人は少ないとおもいます。出版するつもりはありますが、出版業界の事情ですぐにはなかなかできないようです。

 その要旨を書きましたので、それから紹介し、今後はその内容を少しずつ紹介していく予定です。どうぞお付き合いください。何人かでも興味をおぼえる人がでてきたら幸いとおもっています。

 

 

20世紀 中国経済学者の群像』

要旨

 

                          折戸洪太

 

 本書は、20世紀の中国で活躍した11人の経済学者の活動を扱ったものである。選んだ基準は2つあり、1つは、その学説や活動で批判されたことで日本でも知られていた人たちで、しかもいずれもその政治的な弾圧に耐えており、文革ごには「四つの近代化」を推進する役割をになったことである。この人たちを「Ⅰ」で紹介した。もう1つは、わたしが直接にお会いした人たち3人である。しかしこの人たちの研究活動もまた、他の8人の人たちと無関係だったわけではなく、いくつかの面で密接につながっていた。この人たちを「Ⅱ」で紹介した。

 「群像」といえば、楽しく読み進むことができるものである。社会的背景、あの「弾圧」のなかでしめされたそれぞれの人たちの性格は、いずれも「骨のある」、「剛直な」態度であり、「群像」と名のつくすべての読み物の主人公たちと共通しているとおもっている。しかしまた経済学者たちでもあり、その学説、主張の紹介を避けて通ることは当然できない。したがって、経済学に不慣れな読者にとって読みづらいところもある。

 

 「Ⅰ」で紹介した人は、次の8人である。

 一、馬寅初は、著書『新人口論』を書き、経済学者ではじめて全面的な批判を受けたことで、日本でも注目された人である。『新人口論』の内容のほか、批判が行われた過程、それに対応した馬寅初の態度、その後復権するまでの経過を紹介した。かれを政治的に批判したことで、人口問題は現在に至るまでも中国社会に大きな影響をあたえている。

 二、孫冶方は、「利潤導入論者」、「中国のリーベルマン」として批判され、日本でも知られていた。かれのこの主張は、スターリンの指導下で形成された社会主義経済理論のソ連モデルとはことなる、「マルクスが『資本論』で展開していた方法にもとづいて」社会主義経済理論を成立させようとしていく途上での主張であり、それは当時の中国の経済体制を変革せよとのものであった。文革ごこの主張は、経済体制改革の推進力の1つになった。

 またかれは、建国前の中国経済学界でおこなわれた「中国社会の性質問題」の論争に、雑誌『中国農村』を舞台に参加していた。

 三、薛暮橋は、解放直後に『中国国民経済の社会主義改造』が、また文革ごにも『中国社会主義経済問題研究』が日本語に翻訳されて出版され、それらを通じて多くの人たちに知られていた。かれは、「四つの近代化」において理論面から推進的な役割をはたした。『中国社会主義経済問題研究』もまた、中国の事情と合致しない部分をもつソ連の社会主義経済論から、合致するものにすることを目指したものであるが、中国の社会主義経済建設を指導する実践のなかから答えを求めたものといえる。

 かれもまた建国前、雑誌『中国農村』の編纂に従事するとともに、それを舞台に「中国社会の性質問題」の論争に参加していた。

 四、許滌新は、わたしが「中国経済論」を学びはじめたころから、かれが主編をした『政治経済学辞典』がいつも近くにあったことが、かれを取り上げた1つの理由である。さらに、文革末期に「四人組」への批判を目的としたかれの著書『社会主義の生産、流通と分配を論ず、≪資本論≫読書ノート』は、わたしがはじめて目にした、体系化された中国の社会主義経済理論の著作であり、しかも他の人たちの多くのものが、スターリンが『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』でとなえた体系にもとづいていたなかで、マルクスの『資本論』体系に依拠していたことで驚かされたものである。

 かれの経歴をみていくなかで、建国以前のかれは国民党支配地域で地下工作に参加し、革命家としての側面をもっていたこと、建国ごには、経済学者としてだけでなく、党、国家中央の行政幹部としても活躍していたことを知ることができた。

 五、王亜南は、郭大力とともに中国ではじめて『資本論』全3巻を翻訳した人として知られている。かれの経歴等とともに、『資本論』でつかわれている中国語の用語に日本語のそれと同じものが多い原因について紹介した。

 王亜南についてはさらに、著書『中国経済原論』または『中国半封建半植民地経済形態研究』(同一内容のもので、名称が変更された)のなかで、解放前の旧中国の経済社会が反封建半植民地経済形態であることを、ヨーロッパのブルジョア階級社会との違いとの比較のんかで明らかにし、その後のマルクス主義にもとづく「中国の経済学」の発展に大きな影響をあたえたことを紹介した。

 六、郭大力は、王亜南とともに中国ではじめの『資本論』全3巻の翻訳にあたり、主力となった人であり、さらに『剰余価値学説史』全巻を1人で翻訳し、マルクスの著作の翻訳にほとんど一生をささげた人であり、その経過を紹介した。

 郭大力の項ではさらに、かれらが『資本論』全3巻を出版するにさきだち、マルクス主義経済学を翻訳することで中国へ伝播させることにたずさわった人たちと、その底本等についても紹介した。

 七、陳翰笙は、国民党が支配する旧中国において蔡元培の下で中央研究院社会科学研究所副所長という合法的身分をもって、多くの若い研究者を指導して「農村調査」を実施し、当時の中国が半封建半植民地国家であるとの結論を導き出したことで知られている。かれはアメリカへ留学し、ドイツで博士の学位を獲得した。帰国後北京大学の教員をしていた時期にマルクス主義に触れ、さらにコミンテルンの工作に参加した。「農村調査」を指導しながら、ロシア、日本、インド、それにアメリカと、多くの国々での研究・教育活動とコミンテルンの活動を並行して行い、アグネス・スメドレー、ゾルゲとも接点をもっていた。ここでは、それらのことがらいずれにも触れた。

 著作紹介には、かれの国際的な多方面にわたる著作のなかから、晩年に近い文革期に編纂に従事した『中国人労働者出国史料についての総合的資料集』を紹介した。そこでいわれている中国人労働者とは、「クーリー」の名で世界的に知られる、過酷な条件を強いられるなかで重労働に従事した人たちのことである。数百年も続いた「クーリー」の歴史を、労働者を買い入れ酷使した近代帝国主義各国で書かれた史料と、かれらを送り出した中国官僚が作成した史料にもとづいて書いている。当の中国人労働者自身は、それを記す手段すらもたなかった。われわれが「華僑」といっている人たちの渡航の記録であり、歴史である。

 八、王学文は、中国のマルクス主義経済学者たちに大きな影響をあたえた河上肇の弟子であること、それに建国前後にスターリンがとなえた「生産力2要素」論とはことなる「生産力3要素」をとなえたことで、建国初期から長期にわたり迫害を受けていたことについて取り上げた。さらにかれは、1930年代の上海で、尾崎秀実と接触のあった人である。解放区延安でマルクス・レーニン学院の副院長をし、また日本軍捕虜の教育に従事していたことも知った。かれのマルクス主義経済理論は、文革ごその主張が受け入れられた。

 

 「Ⅱ」で紹介した人たちは、いずれも中国人民大学経済系教授であり、直接お会いし、交流した人たちである。その交流のなかでのようすを紹介し、さらにそれぞれの著作を紹介した。いまからみれば、1980年代の中国社会を反映しているということができる。

 一、徐禾は、文革期間中に出版された経済学の教材『政治経済学概論』の主編者であり、その日本語の翻訳・出版たずさわったことから、わたし(折戸) 1982年から1年間中国人民大学でかれの「中国社会主義経済論」の講義を1人で受ける機会にめぐまれ、その人柄にふれ、また文革直後の中国社会にもふれることができた。

 帰国後に薛暮橋の著作『中国社会主義経済問題研究』を改めて読みなおし、新たに発行された『薛暮橋回憶録』等を読むことによって、当人から語られることのなかった徐禾と薛暮橋との関係を知り、それを紹介した。また文革末期、徐禾は「四人組」が主張し、実施していた平均主義的賃金制度に反対する、「労働に応じた分配」実施を主張した論文を、国家計画委員会、国家労働総局の要請にもとづき執筆したことも知ることができた。それで、かれが後日に書いた「労働に応じた分配問題」にかんする論文の内容を詳しく紹介した。

 二、宋涛は、わたし(折戸)1982年に中国人民大学経済系に研究・滞在していたときの系主任である。抗日戦争期に解放区で教育を受け、国共内戦期の新解放区で教員となり、解放直後の北京で新に創設された中国人民大学の経済系の初代主任である。かれは、『資本論』、帝国主義論、それに社会主義経済論と研究範囲が広く、また多くの政治経済学教材を編纂している。

 本書では、かれが主編者である『資本論辞典』の概要を、日本の同名のものと比較して紹介した。それにかれは、1962年から1963年にかけて孫冶方を経済系に招請し、「社会主義経済論」と「流通概論」等の講義を実施した人である。このときかれが記録させた講義録は、孫冶方の「社会主義経済論」の根幹部分であり、「流通概論」は、その「社会主義経済論」の生産過程と流通過程の観点を述べたものである。

 三、孟氧は、わたしが中国人民大学滞在中に出会った経済系教員の1人であり、反右派運動のなかで「右派」とされ、文革期に逮捕されて国家反逆罪で死刑判決をうけ、13年間を獄中で過ごした人である。かれが文革ごにだされた無罪判決により「墓場から出てくる」までのようすはわれわれには想像を絶するもので、かれの娘である孟小灯の著作『純粋孟氧』のなかで、20歳の彼女がはたした役割とともに詳しく書かれている。

 かれの著作のうち『≪資本論≫歴史典拠解釈』を紹介した。その内容は、マルクスの『資本論』のような「広くて深い科学的巨著は、注釈なしでの理解は難しい」、それをソ連が独占的におこなっているが、教条主義であり、そして形而上学的方法が多くて十分ではない。古くから多くの文献に注釈をつけてきた中国人にとって注釈をつけることはうってつけの仕事であるとして挑み、1952年から研究をはじめ、1955年から1957年にかけて学内の教材として少しずつ出版された。出獄ごにそれらをあらためて1冊に編纂して出版した。その膨大な内容のなかから、2つの問題を選んで紹介した。

 

 さらに「Ⅲ」として「経済学における批判」をもうけ、1950年代から文革終了までに展開された政治的批判の状況を、行政の長として批判した側に立ち、また自身も批判される側にも立った于光遠と孫冶方両名の見解等を紹介した。

 

 今回は以上です。