札幌市南区に芸術の森というスポットがある。

野外彫刻美術館やイベント会場などもあり市民の憩いの場として親しまれているのだが、その近くに大真協会札幌支部という施設が存在していることはほとんど知られていない。

 

ストリートビューで「大真協会札幌支部」という看板は確認できるが、ゲートは閉ざされ、その向こうを伺い知ることはできない。

 

大真協会という名を初めて聞いた方も多いだろうが、実は神道系の単立宗教法人なのだ。

 

大真協会

認証年月日:昭和30年4月1日

事務所:函館市杉並町23番3号

代表役員:椿秀夫

目的:

この法人は会首椿敬次(通称麗寿)立教の本義に基き儀式行事を行い、会員を教化育成し、協会を包括し、その他教義の目的達成するための財務その他の業務及び公益事業を行うことを目的とする。

 

事務所は函館にある。

この住所をストリートビューで確認してみると、看板らしきものはなく普通の住宅のように見える。

こちらの建物は、昭和初期以前の郊外住宅の歴史を知る上で貴重だとして、「函館の歴史風土を守る会」により2007年度の保存建築物に選ばれている。

 

 

大真協会とは、一体どのような宗教法人なのか。

簡潔にまとまった文書がなかなか見つからなかったのだが、『広島古代史の謎』(1981年発行)という本に記述があった。

UFOや竹内文書などについても触れられており、まともな歴史本というよりはトンデモ本に近いものなのだが、「新興宗教の氾濫とその功罪」という項に大真協会が出てくる。

ちなみにこの項は、広島県に特化したものではなく、国内全般の新興宗教について体系的に論じている。

 

大真協会

"人間には病気を治す力をそれぞれ内在している。それを念ずることによって、みずから治すことができる"

という教義に、皇后の兄君ー久邇朝融氏は傾倒し、34年12月、50代の若さで世を去るまで医師にかかろうとはしなかったーという。それほど皇室の側近者を感化させた大真協会の会首ー椿麗寿氏(本名・敬治)は、明治35年福島県生れ、大正14年、22才のとき北海道利尻島や東京において修行。難行苦行の末、"大真霊神"によって霊力を感得。多くの奇蹟をあらわすようになった。現在、函館市に本部をおき東京、札幌、帯広小地区三、ハワイ、ロスアンゼルスに支部をもち東京支部が三百人。その他二百人のミニ集団だが、元皇族、福田前首相夫妻、園田外相、小坂善太郎元外相夫人益子(大真協会婦人部会長)、加藤陽三前代議士、芥川賞作家の辻亮一氏、画家の志村立美氏、そのほか大学教授、元自衛隊将官、弁護士、医師など、名士がキラ星のように並んでいる。はじめ、柳原前光伯爵の娘で、大正天皇のご生母ー柳原二位局の姪ー柳原白蓮女史の紹介で、元皇族、賀陽恒憲氏と知り合い、皇后の兄君ー久邇朝融氏と知ったのが縁となり、天皇の顔面神経痛を治したーと信じているらしい。54年七月現在は取材をガンとして拒否しているので、その本質は掴みがたい(週刊文春七・21号)だが想像できることは、天皇に帝王学、司政者には対世界政治学を提供せんとしているのではなかろうか。

 

登場する面々にまず驚く。元皇族やら福田元首相やら、すごい人たちが信者だったそうだ。

そんな大真協会を立ち上げたという椿麗寿氏とは一体どのような人物なのか。

 

調べていくと意外な雑誌にその名前が登場していた。

 

冒険絵物語雑誌『ワイルド』第2号(1967年発行)の「現代の奇蹟 堀内投手の全快」である。

プロ野球・読売巨人軍の堀内恒夫投手が新人王を獲得した翌年の話。開幕から先発ローテーションの一角として活躍する中、5月の広島戦で負傷降板してしまう。

興味深い内容なので長めに抜粋する。
 
全治三日の腰痛と発表されてファンはほっとしたが、堀内の姿はその日から球場には見られなくなった。実は、堀内の負傷は全治三日の腰痛というなまやさしいものではなかったのである。肋骨の一番下の第十二肋骨に、肉ばなれをした筋肉がひっかかった状態で全力投球したため、筋肉の一部がち切れてしまったのである。
飛行機にもタンカではこばれて帰京した。堀内は、あらゆる手当をうけた。やっと歩けるようになると名医をたずね。大病院にも次々にまわって現代医学のおよぶかぎり、いろいろの治療をうけた。
あれから一ヵ月余りだが、立つにも腰をかけるにも痛みがつきまわり、練習などは思いもおよばなかった。
その時、巨人軍嘱託のカイザー田中氏が堀内を椿麗寿先生という人に引きあわせた。
六月十九日の夜六時ごろ、麹町の渋いクラシックな建物、村上開新堂(有名な洋菓子店)の応接室で田中氏と堀内は待っていた。
やがてその椿先生は来た。一見四十七歳の秀麗な容貌のスマートな紳士である。令嬢と知人たちで夕食を採りに見えたのだ。
田中氏が堀内を紹介すると、先生はニッコリ笑って借りきった美しい食堂へ招じ入れた。
静かなピアノの音が流れる部屋で、椿先生は二人の話を聞いた。
「まだ若い人なのに気の毒ですね」
椿先生は、これは人間のもつエネルギーの勉強であるといって、いろいろ話してくれた。
やがて椿先生は小さな白いメモを一枚ぴっとはがして、堀内にこれをつかんでごらんといった。
堀内がメモの紙をつかんだ。その瞬間、全身がぽーっと熱くなった。手のひらまで汗ばむほどである。椿先生は、
「よろしい!身体を動かしてごらん」といった。
堀内は立ち上がり、身体を動かし、満面に喜色をあらわして叫んだ。
「あっ、もう、どこも痛くない元気な時と同じです。」
それから、何度も投球モーションをした。
それはビューッと風を切るものすごい投げおろしのモーションであった。
「これは、私の力ではない。神の力です。私はただその力を使わしてもらっただけだ。神に心からお礼をいいなさい」
ニッコリ笑っていう椿先生を堀内は、昔のキリストとはこんな人なのだろうと思ってながめた。喜び勇んだ堀内は、翌日から猛烈な練習をはじめた。そしてひさびさに二軍のピッチャーとし六月末はじめて登板、見事に勝利をおさめた。また七月八日の対東映戦にも10三振をうばい完投勝ちと、堀内は奇蹟の全快をしたのである。今後は一そう練習にはげみ、昨年の体力、技術、精神力をとりもどしやがて、一軍での活躍をファンは期待できるのだ。
椿麗寿先生は、北海道の函館に住んでいて、このときちょうど上京されて堀内を助けたのである。これまで小児マヒの少女の動かない手が、目の前で動くようになったり、歩けない人が歩いたり、ガンで瀕死の重病人が立ちあがって全快したり、数えきれない奇蹟を現わして、多くの人を助けた人だという。
 
堀内投手のケガを、椿氏が神の力で治したというのである。

 

神的な力を持つ椿麗寿氏とは何者なのか。

1983年号の雑誌『フォーカス』が、大真協会を取り上げた。

 

謎の新興宗教「大真協会」ー日本の上流階級が"神"と仰ぐ「函館の人」

 新興宗教「大真協会」は、いわゆる一般大衆をほとんど相手にしない。信者の一人が、ある日、そのことに疑問を呈した。すると、「会首」と呼ばれる教祖の椿麗寿氏(80)は、つぎのように説いたというー人間には2種類あって、質の良い人間と質の悪い人間がいる。質の悪い人間はどんなに救ってやろうと思っても、せっかくの教えを理解しない。だから、大真協会は質の悪い人間は最初から相手にしないのである。

 この椿会首の言葉は、大真協会(本部=函館)という宗教団体のきわめて特殊な性格を端的に示したものとして貴重である。会員が約500人と少ないのも、会首自身がこうした特殊な人間観の持主であるからなのだ。しかし、それではいったい、椿会首のいう"質の良い人間"とはどのテの人間のことなのだろうか?

 5月22日から3日間、静岡県のつま恋(掛川市)で行われた同協会「婦人部総会」には、椿会首(写真左端)と、"御奥様"と呼ばれる房子夫人(61=左から二人目)をはじめ、全国各地の支部から駆けつけた女性信者多数が出席した。なにしろ、婦人部総会は、毎年10月10日の「大祭」と並ぶ大真協会の2大イベントなのだ。現在、婦人部会長の任にあるのは小坂善太郎元外相夫人の益子さん(64=左から3人目)。そして、顧問、相談役には元代議士夫人、元皇族など、"上流階級"の夫人たちがキラ星のごとく名を連ねているのだが、やがて総会が始まると、意外な光景が現出した。椿会首の登場、退席のたびに、この着飾った上流夫人たちがスターに群がる10代の女の子よろしく、会首めがけて殺到するのだ。嬌声をあげて車に追いすがる夫人、握手を求めて和服のスソを乱して駆け寄る夫人……。なんだ、椿会首のいう"質の良い人間"とは、こういう人たちのことだったのか、という思いを禁じ得ないが、しかし大真協会草創期には、こんなミーハーみたいな上流夫人ばかりではなかったらしい。もともと会首椿麗寿(本名・敬次)氏は終戦直後、かの柳原白蓮女史に近づいたことで運をつかんだ、といわれている。

「あのころは、今では考えられないような食糧難時代。彼は北海道の海産物を贈って女史の知遇を得たんです」(元会員)

ー椿氏の夫人房子さんの実家は、北海道利尻島で漁師をしていた。このことが、彼の贈り物作戦を可能にしたらしい。終戦のドサクサのころ、利尻コンブをはじめ、イカ、鮭などを扱う「闇屋」だったことは椿氏自身が周囲に語っている。ともあれ大正天皇の生母の姪にあたる閨秀歌人白蓮女史の仲介で、彼は次々に元皇族に近づいた。その甲斐あってか、信者の数も次第に増え、昭和25年に会員わずか10人の「椿感謝会」として発足した組織は、昭和30年、宗教法人の認可を受け、ようやく新興宗教としての体裁を整えるに至る。以後、椿氏の「超能力」に驚嘆して、その熱烈な信奉者となった人々の中には、実に啞然とするばかりの豪華な顔ぶれが並ぶのである。鳩山一郎元首相と薫子夫人、作家の横光利一、川端康成、佐藤栄作元首相、福田赳夫元首相夫妻、園田直元外相……そして、皇后陛下。昭和40年代、天皇陛下のご病気をきっかけに椿会首の信奉者となられた皇后さまは、椿会首の超能力へのお返しとして、吹上御苑でお手ずから摘まれた銀杏の実を贈られたといわれている。また、ある時、自らお描きになった絵を贈られたともいわれている。なるほど、椿氏のあの自信タップリの”人間論”の背景は、どうやらこのあたりにあるらしいのである。

 

写真が掲載されているが、椿氏夫妻の晩年の姿が写っている貴重な一枚だ。

 

ますます椿氏と大真協会のことが気になってきた。

大真協会のことを一番知ることができそうな本がある。

1962年に出版された、大真協会発行の『運命の改造』だ。

 

椿氏について、そして大真協会の成り立ちについて記してあるので、概略を記す。

 

椿麗寿氏は1903年11月6日、札幌市生まれ。

両親は立派な家柄の士族で、父は麗寿氏がまだ小さい頃に死去。

15歳で知人を頼り上京、学校に入学するも健康を害し中退を余儀なくされる。

その頃から普通以上の直感力と肉体への"ひびき"を自覚。

"ひびき"の一例=胸に病気を抱える人が自宅に遊びに来ると、同じように胸が苦しくなる

"ひびき"は激しくなり、この苦悩からの解放を願い宗教の道へ。

しかし、キリスト教や新興宗教に入ってみたものの解決には至らず。

すると、神の声が聞こえるようになり、お告げに従って利尻島へ向かい修業を行う。

利尻島で人知を超えた力が開眼。

大波をしずめ、島民の病気を一瞬で治す、ニシンの来る時刻や場所を的中させる、一度も行ったことのない海底の様子をピタリと当てるなどの奇蹟を連発。

さらなる修業の末、一般の人々に"ひびき"を体得させることを可能に。

1950年、函館市に大真協会を設立、椿氏は会首と呼ばれる。

「国際生命科学研究会」という外郭団体も設立。

日本全国普及運動を行う中、世界進出を計画。

ドイツ人で元駐日大使のスターマー氏、フランス人で東大教授のメクレアント氏、フランス人で哲学博士のスムラー氏、ドイツ人でジャーナリストのクローメ氏、ロシア人で早稲田大教授のヴァノスキー氏が信者に。

1959年11月15日、椿山荘にて、椿会首が主催する後援者の初顔合わせの会が開かれる。

この会の出席者は、元陸軍元帥の畑俊六氏、日本青年協会会長の関屋竜吉氏、日本女子会館理事の片岡重助氏、日本画家の志村立美氏、元満洲国皇帝侍従長の工藤忠氏、日大図書館長の斉藤敏氏、都立大教授の杉山茂顕氏、日本薬学会員の吉井千代田氏。

また、この日出席できなかった賀陽恒憲氏から、「椿会首が日本の将来を担う青年を正しく指導、育成されている立派な精神に大いに共鳴、今後いかなる協力も惜しまない旨出席の皆様によろしく伝えてほしい」とのメッセージが、吉井氏から伝えられたという。

 

この後援者たちの顔触れは何を意味するのか。

少々、旧日本軍など戦時中に権勢を誇った人物たちが多い印象を受けるのではないだろうか。

ちなみに元駐日大使のスターマー氏とは、ヒトラーの密使として来日し、日独伊三国同盟の締結に大きな役割を果たした人物である。

 

この本の編集責任者兼発行者は、工藤亮造という人物である。

1960年に学士会館で開かれた椿後援会の会合にも名を連ねていることから、大真協会の幹部だとみられる。

一体何者なのか。

 

こちらは1941年度の『函館市学事一覧』。

函館市の視学という役職に工藤亮造氏の名前がある。

視学というのは戦前の教育行政官で、国家の教育方針を徹底させるため、教育の指導監督などを行う役職のことだそうだ。

 

そして、工藤氏は日本青年協会の北海道函館支部の監事を務めていた。
日本青年協会発行の機関誌『アカツキ』にその名前がある。
 
『アカツキ』によると、工藤氏は1940年2月26日に、東川青年学校で記念講演も行っている。

 

函館で活動し、日本青年協会の会員であるということから、私はこの人物が大真協会の工藤亮造氏で間違いないと考える。
先ほど紹介した1959年の後援者の会には、日本青年協会の会長が参加していた。
関屋龍吉(竜吉)氏という人物である。
 
関屋氏は文部省入省後、1934年から41年まで文部省直轄の「国民精神文化研究所」の所長として皇民化教育の一翼を担った。
この研究所は戦後、GHQにより超国家主義組織だとして解散させられ、関屋氏自身も公職追放となっている。
 
元官僚、元軍人、元皇族。
戦争が終わり、厳しい日々を送っていた彼らが椿会首のもとに参集したのはなぜなのか。
 
『運命の改造』には、満洲国皇帝溥儀の侍従長を務めた工藤忠氏の寄稿文が載っている。
 
 終戦以後、我国は物的心的に行き詰りを生じてしまった。国民は、正に生き乍らの焦熱地獄であるこの暗黒のどん底に犇めき、蠢めき乍ら、藁一本にでも摑み上がろうとして居る現状である。
〈中略〉
 現代の人々は誠に気の毒である。求めて求むるものが得られない。未だ以て新旧何れの宗教にも救われずして、依然として焦熱地獄のどん底に苦しみ悶えている。然らば我が日本国否世界人類の救済は畢に絶望なりや。否、我同胞よ、乞う安んぜよ。茲に神は我日本国否世界の亡状を見るに忍びずして、茲に一大宗教を現世に生み出し賜うた。これが絶対的な世界最大の宗教である。これを大真となづけられた。然も世界人類を救い導く聖者即ち大真協会会首が現出したのである。この一大宗教の出現してこそ、地獄のどん底に苦しみ悶えている我日本国民を始めとして世界人類悉く救済されるのである。求むる者は来るべし。救われんとする者は来るべし。病み衰えたる者は来るべし。亡び潰えんとする者は来るべし。かかる者は総て皆根底から救済され、何れも皆赫々たる光明を得られることを絶叫してやまない。
 
自らの当時の不遇な状況を重ね合わせているようにもみえる。
このように戦後日本に鬱屈した思いを抱えた者たちが、椿氏を祭り上げたのではないか。
 
宗教であるからには信者は祈ったり聖書やお経を読んだり、何か共通のことをしているのだと思うが、そのあたりはどうなのだろうか。
探してみると、『運命の改造』にそのあたりの答えも載っていたので引用させてもらう。
 
 椿先生は御自分が偉大な霊感をお感じになるばかりでなく、それを我々普通の人間にも容易に霊感を感じる事が出来る様、仕上げて下さる偉大な力を持っておられるのです。
 然も、我々会員はこの霊感を授かる為に何一つ、所謂「行」の様なものもいたしておりません。昔の行者のやった様な水を浴びる事も、断食も、座禪もいたしません。経文一つ読みません。会員として椿先生と結ばれ、素直な求める心を持ってお教えを聞き、会員同志で体験を語り合い真剣に勉強いたしておりますと、自然に、誰でも霊感を得られる様になるのであります。斯様な事は世界広しと雖ども、未だかつて無かった現象であります。
 
椿氏の話を聞き、信じ、会員と語り合えばOKという、何ともフワッとしたものだった。
彼らが何を目的としていたのか、イマイチわからない。
本当に宗教といえるものなのだろうか?
秘密結社的なものの類のほうがしっくりくるのだが…
 
設立から70年以上が経ったいま、大真協会はどのような組織となっているのだろうか。
現在の代表は椿秀夫氏。
秀夫氏は麗寿氏の息子だろうか。
椿麗寿会首は生きていたら120歳・・・とっくに他界されたと思われる。
 
大真協会についてインターネットで調べてもほとんど情報がない。
活動を伝えているのは唯一この記事だけだ。
2015年に日本赤十字社が発行した『赤十字NEWS』に、大真協会のチャリティバザーに関する報告が掲載されている。
 
ちなみに週刊誌では、小室圭さんの母親・佳代さんについて新興宗教の問題が取り沙汰された際、昭和の香淳皇后も新興宗教=大真協会に傾倒していたという話が紹介された。
2019年9月の『週刊新潮』記事を引用する。
 

香淳皇后には昭和天皇の顔面痙攣というお悩みがあり、ちょうど訪欧の頃、その症状はテレビ画面を通じてもハッキリ見て取れるほど激しくなっていた。侍医たちもお手上げ状態だった中、少なからぬ数の病気を治癒してきた人物の存在を皇后は聞かされる。それが、「大真協会」の椿麗寿(れい じゅ)会首で、間を取り持ったのが”魔女”とは別の現職女官だった。

 当時の報道によれば、本部は函館、ハワイやロスにも支部があるというこの神道系の新興宗教は、50年の発足で会員500名ほど。カルトもせせら笑う少数教団だが、その特色は信徒に多くの著名人を抱えたセレブぶりにあった。報じられただけでも、鳩山一郎夫妻、佐藤栄作夫妻、園田直・天光光(てん こう こう)夫妻、川端康成、横光利一、佐渡ケ嶽親方(横綱琴櫻)……と多士済々。会首の娘はかのマーロン・ブランドに求婚されたなんて話もあったが、試みに園田天光光のコメントを引くと、

「私が入ったのは、主人が亡くなるちょっと前くらいだったと思います。大真協会は精神修養をするところなんです。会費は相当かかると思います(略)

 芥川賞作家の辻亮一は、

「目の見えない人を治した例を知っていますよ。この人は椿先生の前に出ただけで見えるようになったんです。(略)その場では治っても、時間がたつと元に戻ってしまう人もいる。それは心底から信じないからですね」

 こんな具合で、むろん香淳皇后の「大真」への傾倒ぶりも相当なもので、”椿会首の写真が欲しい”と仰って、これを携えて訪欧されたという。更に、皇后がどこかの国でイヤリングとネックレスをなくされた際に、椿会首に”霊示”を仰がれたところ、会首はその在り処を的中させた。その返礼として、帰国後に皇后自ら吹上御所で摘まれた銀杏を会首に贈られた……といったエピソードが残されている。

 
大真協会の実態はわからないことが多いが、函館や札幌だけでなく、東京にも支部がある。
目黒区碑文谷の一等地だ。

 

また目黒区鷹番には記念会館もある。

 

秘密のベールに包まれた大真協会。
情報が少なすぎることから、一般大衆を相手にしないという方針は、いまも変わっていないのかもしれない。
現在の活動の詳細が気になるところだ。

蝦名大也(えびな・ひろや)
昭和34年1月4日生まれ

令和8年1月7日没
釧路市出身
釧路湖陵高⇒青山学院大経済学部中退⇒衆議院議員中川一郎秘書⇒衆議院議員鈴木宗男釧路事務所長⇒釧路市議⇒道議⇒釧路市長
資金管理団体:釧路市総合計画研究会(〜令和7年4月1日)

関連する政治団体:えびな大也後援会

【選挙結果】

釧路市長選
令和6年10月27日投開票
定数1 候補者数3
3位 えびな大也(現・無所属・65歳) 21,081票
⇒落選


釧路市長選
令和2年10月18日投開票
定数1 候補者数3
1位 えびな大也(現・無所属・61歳) 29,956票
⇒4期目

釧路市長選
平成28年10月23日投開票
定数1 候補者数2
1位 蝦名大也(現・無所属・57歳) 38,987票
⇒3期目

釧路市長選
平成24年10月21日投開票
定数1 候補者数3
1位 蝦名大也(現・無所属・53歳) 40,977票
⇒2期目

釧路市長選
平成20年11月2日投開票
定数1 候補者数3
1位 蝦名大也(新・無所属・49歳) 37,946票
⇒初当選

・道議選(釧路市
平成19年4月8日投開票
定数4 候補者数5
3位 蝦名大也(現・自民党・48歳) 18,383票
⇒3期目

・道議選(釧路市
平成15年4月13日投開票
定数4 候補者数5
4位 蝦名大也(現・自民党・44歳) 15,070票
⇒2期目

・道議選(釧路市
平成11年4月11日投開票
定数4 候補者数6
4位 蝦名大也(新・無所属・40歳) 12,763票
⇒初当選

・釧路市議選
平成9年10月19日投開票
定数38 候補者数43
5位 蝦名大也(現・自民党・38歳) 2,890票
⇒2期目

・釧路市議選
平成5年10月17日投開票
定数40 候補者数43
39位 蝦名大也(新・自民党・34歳) 1,852票
⇒初当選

釧路市長選挙

※平成17年10月11日 釧路市、阿寒町、音別町を廃し釧路市を設置

 

・令和6年10月27日投開票

当 鶴間秀典 50歳 無所属 新

落 笠井龍司 59歳 無所属 新

落 蝦名大也 65歳 無所属 現

 

・令和2年10月18日投開票

当 蝦名大也 61歳 無所属 現 
落 鶴間秀典 46歳 無所属 新
落 松永俊雄 71歳 無所属 新

 

・平成28年10月23日投開票

当 蝦名大也 57歳 無所属 現
落 石川明美 65歳 無所属 新
 

・平成24年10月21日投開票

当 蝦名大也 53歳 無所属 現
落 中家治子 58歳 無所属 新
落 八村弘昭 36歳 無所属 新

 

・平成20年11月2日投開票

当 蝦名大也 49歳 無所属 新
落 上田徳郎 60歳 無所属 新
落 松永俊雄 59歳 共産党 新

 

・平成17年10月23日投開票

当 伊東良孝 56歳 無所属 新

 


釧路市長選挙
※昭和24年10月10日 鳥取町を編入合併
 

・平成14年12月15日投開票

当 伊東良孝 54歳 無所属 新
落 藤原勝子 60歳 無所属 新
落 奥野嵩 60歳 無所属 新
 

・平成12年10月22日投開票

当 綿貫健輔 54歳 無所属 現
落 村上和繁 40歳 無所属 新

 

・平成8年11月17日投開票

当 綿貫健輔 50歳 無所属 新
落 後藤敏夫 54歳 無所属 新
落 工藤一夫 57歳 共産党 新

 

・平成5年10月17日投開票

当 鰐淵俊之 56歳 無所属 現
落 村上和繁 33歳 無所属 新
 

・平成元年10月15日投開票

当 鰐淵俊之 52歳 無所属 現
落 西田昭紘 47歳 無所属 新
 

・昭和60年10月13日投開票

当 鰐淵俊之 48歳 無所属 現
落 西田昭紘 43歳 無所属 新
落 橋谷和男 54歳 無所属 新

・昭和56年10月18日投開票

当 鰐淵俊之 44歳 無所属 現
落 山崎幹雄 53歳 無所属 新
落 橋谷和男 50歳 無所属 新
落 坂本和 47歳 無所属 新
 

・昭和52年10月16日投開票

当 鰐淵俊之 40歳 無所属 新
落 山口哲夫 49歳 社会党 現

 

・昭和48年10月21日投開票

当 山口哲夫 45歳 社会党 現

落 鰐淵俊之 36歳 無所属 新
落 橋谷和男 42歳 無所属 新

 

・昭和44年10月23日投開票

当 山口哲夫 41歳 社会党 現
落 渡部五郎 46歳 無所属 新
落 橋谷和男 38歳 無所属 新

 

・昭和40年10月27日投開票

当 山口哲夫 37歳 社会党 新

落 渡部五郎 42歳 無所属 新
落 本間武三 57歳 無所属 新

 

・昭和36年10月26日投開票

当 山本武雄 56歳 無所属 現
落 島村勝 36歳 共産党 新

 

・昭和32年10月27日投開票

当 山本武雄 52歳 社会党 新
落 佐熊宏平 66歳 無所属 現

 

・昭和28年10月27日投開票

当 佐熊宏平 62歳 無所属 現
落 山本武雄 48歳 社会党 新
 

・昭和24年11月10日投開票

当 佐熊宏平 58歳 無所属 現
落 土屋祝郎 41歳 共産党 新

 

・昭和22年4月5日投開票

当 佐熊宏平 56歳 無所属 新
落 菊地三之助 59歳 無所属 新
落 土屋祝郎 39歳 共産党 新

 

 

鳥取町長選挙

 

・昭和22年4月5日投開票

当 藤村敏一 53歳 無所属 新
落 神正規 54歳 無所属 新

 

 

阿寒町長選挙

※昭和32年1月1日 町制施行
 

・平成14年11月17日投開票

当 中島守一 71歳 無所属 新
落 吉田守人 53歳 無所属 新
落 粟野二郎 65歳 無所属 新

 

・平成10年11月15日投開票

当 佐々木三男 65歳 無所属 現
落 粟野二郎 61歳 無所属 新

 

・平成6年12月4日投開票

当 佐々木三男 61歳 無所属 新

落 高橋袈裟二 60歳 無所属 新

 

・平成5年3月21日投開票

当 月舘俊松 61歳 無所属 現

 

・平成元年3月19日投開票

当 月舘俊松 57歳 無所属 新

落 佐藤八夫 63歳 無所属 現

 

・昭和60年3月17日投開票

当 佐藤八夫 59歳 無所属 現

落 豊岡征則 39歳 無所属 新

 

・昭和56年3月29日投開票

当 佐藤八夫 55歳 無所属 新

落 木村晴一 58歳 無所属 新
落 豊岡征則 35歳 無所属 新
落 坂本和 46歳 無所属 新

 

・昭和53年12月10日投開票

当 太田佐市 68歳 無所属 現

 

・昭和49年12月8日投開票

当 太田佐市 64歳 無所属 元

落 大野直栄 71歳 無所属 現

 

・昭和45年12月15日投開票

当 大野直栄 67歳 無所属 現

 

・昭和41年12月2日投開票

当 大野直栄 63歳 無所属 現

 

・昭和37年12月5日投開票

当 大野直栄 59歳 無所属 現

 

・昭和33年12月18日投開票

当 大野直栄 55歳 無所属 新

落 太田佐市 48歳 無所属 現
落 小野俊与 51歳 無所属 新

 

・昭和33年6月22日投開票

当 太田佐市 47歳 無所属 新
落 大野直栄 55歳 無所属 新

 

・昭和30年4月30日投開票

当 小村義馬 44歳 無所属 現
落 小林富夫 51歳 無所属 新

 

・昭和26年4月23日投開票

当 小村義馬 40歳 無所属 現

落 小林富夫 47歳 無所属 新

 

・昭和22年4月5日投開票

当 小村義馬 36歳 無所属 新

落 黒井政蔵 43歳 無所属 新

 

 

音別町長選挙

※昭和34年1月1日 町制施行
 

・平成17年7月24日投開票

当 高野武 67歳 無所属 現

 

・平成13年7月22日投開票

当 高野武 63歳 無所属 現

 

・平成9年7月20日投開票

当 高野武 59歳 無所属 新

 

・平成5年7月25日投開票

当 今野宗一 69歳 無所属 現

 

・平成元年7月16日投開票

当 今野宗一 65歳 無所属 現

 

・昭和60年7月21日投開票

当 今野宗一 61歳 無所属 現

 

・昭和56年7月26日投開票

当 今野宗一 57歳 無所属 現

落 坂本和 47歳 無所属 新

 

・昭和52年7月23日投開票

当 今野宗一 53歳 無所属 現

 

・昭和48年7月21日投開票

当 今野宗一 49歳 無所属 現

 

・昭和44年8月8日投開票

当 今野宗一 45歳 無所属 新

落 鈴木義澄 43歳 共産党 新

 

・昭和42年4月28日投開票

当 千葉褜治 62歳 無所属 現

 

・昭和38年4月30日投開票

当 千葉褜治 58歳 無所属 現

 

・昭和34年4月30日投開票

当 千葉褜治 58歳 無所属 新

落 熊田力 54歳 無所属 新

 

・昭和30年4月30日投開票

当 紅林鉄雄 68歳 無所属 現

 

・昭和26年4月23日投開票

当 紅林鉄雄 64歳 無所属 現

 

・昭和22年4月5日投開票

当 紅林鉄雄 60歳 無所属 新

落 橋本文雄 57歳 無所属 新

苫小牧市長選挙

※昭和23年4月1日 市制施行

 

・令和6年12月8日投開票

金澤俊 50歳 無所属 新
田村一也 49歳 無所属 新


・令和4年6月19日投開票

当 岩倉博文 72歳 無所属 現
落 西村俊寛 61歳 無所属 新
 

・平成30年7月1日投開票
当 岩倉博文 68歳 無所属 現
 

・平成26年6月29日投開票

当 岩倉博文 64歳 無所属 現

落 工藤良一 60歳 無所属 新

 

・平成22年6月27日投開票

当 岩倉博文 60歳 無所属 現

落 沖田清志 46歳 無所属 新

 

・平成18年7月9日投開票

当 岩倉博文 56歳 無所属 新
落 鳥越忠行 66歳 無所属 元

 

・平成15年4月27日投開票

当 櫻井忠 49歳 無所属 新
落 鳥越忠行 63歳 無所属 現

・平成11年4月25日投開票

当 鳥越忠行 59歳 無所属 現

 

・平成7年4月23日投開票

当 鳥越忠行 55歳 無所属 現

 

・平成3年4月21日投開票

当 鳥越忠行 51歳 無所属 現

 

・昭和62年4月26日投開票

当 鳥越忠行 47歳 無所属 新
落 板谷実 58歳 無所属 現

 

・昭和58年4月24日投開票

当 板谷実 54歳 無所属 新
落 鳥越忠行 43歳 無所属 新
落 島美樹二 61歳 無所属 新
落 川島登 36歳 共産党 新

 

・昭和54年4月22日投開票

当 大泉源郎 68歳 無所属 現
落 小田桐末吉 53歳 無所属 新
落 山口照和 52歳 無所属 新

 

・昭和50年4月27日投開票

当 大泉源郎 64歳 無所属 現
落 神谷与四郎 51歳 無所属 新
 

・昭和46年4月25日投開票

当 大泉源郎 60歳 無所属 現
落 山口照和 44歳 共産党 新

 

・昭和42年4月28日投開票

当 大泉源郎 56歳 無所属 現
落 豊間根吉明 43歳 共産党 新

 

・昭和38年4月30日投開票

当 大泉源郎 52歳 無所属 新
落 稲垣是成 54歳 無所属 新
落 豊間根吉明 39歳 共産党 新

 

・昭和34年4月30日投開票

当 田中正太郎 73歳 無所属 現

 

・昭和30年4月30日投開票

当 田中正太郎 69歳 無所属 現

 

・昭和26年4月23日投開票

当 田中正太郎 65歳 無所属 現

 

・昭和22年4月5日投開票
当 田中正太郎 61歳 無所属 新
落 相武吉次郎 67歳 無所属 新
落 菊地善吾 53歳 無所属 新

        
        












 

旧統一教会の問題を受けて、宗教法人について調べる機会が増えた。

歴史が浅いと言われる北海道であるが、世間にはあまり知られていないものの、実に興味深い遍歴を持つ宗教法人が数多く存在することがわかってきた。

聞いたことのない宗教ばかりかもしれないが、北海道の歴史の一端が垣間見える側面もあるので、ニッチな読者に向けて、ひとつずつご紹介していきたい。

 

ことしろ舎北海道本部

認証年月日:昭和32年8月30日

事務所:虻田郡豊浦町字新山梨308

代表役員:相川静

目的:

 この法人は、天照皇大神・天光之命を主宰神(御祭神)と仰ぎ、その御神意のままに教義を広め、儀式行事を行い、信仰者を教化育成して惟神の道を歩む心を培い、その他「ことしろ舎北海道本部」の目的を達成するために必要な業務及び事業を行なう。


今回取り上げるのはこちらの神道系単立宗教法人。

2022年7月までは神霊教院、さらにその前は相川神霊教院という法人名だった。

胆振の豊浦町に事務所を置き、『豊浦町史』と『新・豊浦町史』にそのルーツが記されている。

 

『豊浦町史』(1972年発行)

相川神霊教院 所在地 豊浦町字新山梨

 院主相川明が二十歳のとき大神の霊力を知覚し、同時にたびかさなる霊示にいよいよ神意を深く悟り、大神の御心を体して、神にお仕えすることに一身を捧げようと決意した。以来十六年間にわたり、東京・満洲・樺太等に修業し、種々の霊験をうけ、ついに『静息修交霊感応即神』という、神霊の真理に悟達した。

 昭和六年六月二日『わが神霊力にて、治病救世の道を歩め』との大神のお告げを受け、布施救済の道に入り、昭和十三年信者の懇望と大神の導きにより、新山梨の現在地に霊堂を築いたが、同三十二年信者の手で静霊殿(一九一平方メートル)が新築され、さらに同四十五年には広壮な神殿(五六一平方メートル)が建てられている。信者は全国に百数十万人、道内だけでも八〇万人の多き及んでいるという。

 

『新・豊浦町史』(1991年発行)

神霊教院 所在地 豊浦町字新山梨

 初代院主相川明が二十歳のとき大神の霊力を知覚し、度重なる霊示にいよいよ神意を深く悟り大神の御心を体して、神にお仕えすることに一身を捧げようと決意した。以来十六年間にわたり、東京、満洲、樺太等に修業し、種々の霊験をうけ、ついに「静息修交霊感応即神」という、神霊の真理を悟るに至った。

 昭和六年六月二日、「わが神霊力にて、治病救世の道を歩め」との大神のお告げを受け、布施救済の道に入り、昭和十三年信者の懇望と大神の導きにより、新山梨の現在地に霊堂を築いた。

 さらに、昭和三十二年、信者の手で静霊殿百九十一平方メートルが新築された。またこの年、宗教法人の認可を受ける。

 昭和四十五年には、広壮な神殿五百六十一平方メートルと周辺の敷地が庭園風に整備された。

 昭和六十年九月には立教五十五周年を迎える。

 

歴代院主

 初代 相川 明

 二代 相川 光明

 三代 相川 一昭

 

初代の相川明氏が超人的な力を持つすごい人物だったようで、成人になってから霊的な力を自覚し修行に励んだとのこと。

1931年に神のお告げを受けたことで、明氏を教祖と崇める信者も集まり始め、1938年に豊浦町新山梨に拠点を築いたそうだ。

 

明氏は一体どのような力を持っていたのか。

民俗学者の根岸謙之助氏が著した『医療民俗学論』(1991年発行)に、明氏についての記述がある。

 暗示効果による治療は、巫女・修験などの呪医によって、ひろく行われている。たとえば北海道の相川神霊院の相川明氏は北海道全域にわたり、霊感療法師として有名である。人助けの動機は、自分の病気を、寺で修行していて治し、その際霊感が授かったことからであるという。治療の方法は、祈願して、患部に手を当てるだけである。患者は霊的な力を有するとされる、治療者の呪力暗示にかかり、奇跡的と言われるほど早期に治癒する。

(第一章「医療民俗学の方法」の四項「暗示効果による治療」より)

 

明氏はいわゆる”手かざし”で多くの人の病気を治し、当時の道内では大変有名な人物だったそうである。

 

『新・豊浦町史』には豊浦町新山梨の教団本部の画像が掲載されている。

 

ご覧のように立派な建造物である。

80年代前半までは「相川神霊院」という国鉄バスの停留所も存在し、国鉄室蘭本線の豊浦駅から参詣者を運んでいたそうだ。

豊浦町以外にも多くの信者がいたことが窺える。

 

『国鉄北海道自動車五十年』(1984年発行)にはこのバス路線に関する記載がある。

相川神霊院輸送

 相川神霊院は、近代医学に見放された病気の方々を神霊術によって救うといわれ、神霊に頼る人々が、新泉から湧き出るお水を頂くために、入れ物を抱え、東北、北海道の各地から訪れるため、昭和三十二年五月豊浦〜新山梨学校間の路線を相川神霊院まで延長運行したものである。ここの大祭には多くの信者が臨時列車で入り込むために、この臨時列車との連絡輸送を実施したが昭和五十一年三、六四八人の輸送を最高に、昭和五十三年頃からは、自家用車での訪院が多く、大祭の輸送人員も激減した。

 このため、昭和五十八年十一月三十日を最後に神霊院輸送を中止した。

 

もともとは奥新山梨というバス停だったようだが、相川神霊院に名称を変更。

国鉄は豊浦駅発着の臨時列車まで走らせ、バスとの連絡体制を構築し、参詣客に対応したという。

 

北海タイムスがその頃の様子を記事にしていた。

1971年6月23日の夕刊で、「急行を止めた"生き神"さま」として、明氏の銅像除幕式の様子などを見開き1ページを使い大きく取り上げている。

 月に人間が立つこの科学時代に、なお"神霊"で地上の悩みを払うーそんな"生き神さま"が北海道は噴火湾に面した豊浦町の山奥に"鎮座"している。四十年の功徳に打たれた信者たちの手で、このほど銅像も建ち、二十日の日曜日には道内各地からわっと一千余の信者が"ご参拝"うやうやしく除幕の儀が行なわれた。祈とうと神霊水のこの神さま、過疎化の進む豊浦で名を高めている。その貢献度も大きく、式当日は急行列車まで臨時停車。なるほどただならぬご威光ではある。

 豊浦町は新山梨にある『相川神霊教院』(宗教法人)の院主、相川霊明さん=本名・明=がそのご本尊。当年七十五歳。ここは国鉄室蘭本線、豊浦駅から国道三七号線を横切り、北に約十二㌔。明治の末期、山梨県からの開拓移住者百六戸が新天地を求めて切り開いた山奥の純農村地帯である。生き神様もかつては荒れ地と原始林でクワやオノを振るった開拓者の二世。

 大正五年、二十歳の時、造材作業で大けがをしたときに"神の啓示"を受け、いらいさまざまな苦行、迫害と戦いながら昭和六年悟りを得、"治病、救世"の布教、救済の道にはいったという。時に三十六歳。

 ここのお導きは院主のお祈りに加えて『神霊水』と呼ばれる地下水の威力。万病や悩みの解消にズバリだそう『医者から見放されたり原因不明の難病でも、ひとたび院主様に患部をさすっていただき、祈とうを受けた水を内科?の信者は飲み、外科?の患者はつけたりするとピタリです』『医者から見放された手の上がらなかった病気が一週間で自由になった』(信者の話)など不思議な"ご利益"が話題を呼んで、信者は末広がり。道内はいうに及ばず遠くは九州、名古屋、横浜と全国にざっと五万人。道内でも道南地方や地元周辺に約九千人の会員が"登録"され、昨年八月には開教四十周年を記念、ざっと千四百万円の浄財で寺院スタイルの豪華な本部も建てられた。

 今度の銅像は四十年間、病める人や悩める多くの人々を"健康な生活に導いた"院主への敬愛をこめて数万人におよぶ信者からのきょ金約四百五十万円。約三・五㌧のミカゲ石の台座に飾られた像は高さ約一・六㍍。端座する背広姿はいささか生き神様のイメージに違いがこれも日ごろ信者と接するお姿とか。

 晴天に恵まれたこの日の式場はざっと千余の老若男女で押すな押すな。式のあと各地から集まった信者たち、生き神さまの分身に合掌したりさすった手で、肩や腰の幹部をなでるなど信心ひとすじ。

 この日は上り、下りの急行『すずらん』も各一本が臨時停車。昭和三年の開駅いらいはじめての豊浦駅急行停車というから国鉄もご利やくにあずかった。豊浦駅ー神霊院間の国鉄定期バスも平常の二倍、四台の車で一日三往復の定期ダイヤのほか、六往復の臨時便を運転するなど盆と正月が一度にきたような乗降客にホクホク。営業所長みずからヤマに乗り込んで整理に当たるなど神さまの余恵にニンマリ。

 

当時の熱気と隆盛ぶりが伝わってくる。

豊浦駅と相川神霊教院を結ぶバス路線は年間4000人以上を運んだこともあったが、次第にモータリゼーションの波にのまれ、1983年に路線廃止となってしまったそうだ。

 

さて、それからおよそ40年が経った現在はどうなっているのか。

今年8月に撮影されたGoogleストリートビューを見ると衝撃を受ける。

 

建物が朽ちて、屋根の一部が崩れてしまっている。

雑草も伸び放題…もう宗教法人としての実態はないのだろうか。

 

ネット上を調べてみても、誰かが参詣したような話は何も出てこない。

ただ、この神霊教院の敷地は5、6年ほど前までハーブ工房として使われていたようだ。

工房の連絡先は相川静可氏となっている。

現在の代表・相川静氏と同一人物なのだろうか。

 

そして、去年名前を変更した「ことしろ舎北海道本部」とは一体何なのか?

 

実は滋賀県大津市には「ことしろ舎」という神道系の単立宗教法人が存在する。

現在の代表は大谷義和氏となっているが、もともとは大谷司完という人物が始めた宗教法人のようだ。

どんな人物だったのか。

アメリカ在住の牧師でヨガ研究者でもあった関口野薔薇氏が、著者『文芸と宗教:神々は歌いたまう』(1963年発行)の中で司完氏に触れているので引用する。

 そういう古い論争や宗教学を超越して、宗教を全く新しい世界に解放し、日本の宗教界にスウェデンボルグ式の見地を与えたのが、滋賀県の生れで現在もなお大津市内に住んでおられる大谷司完氏である。

 大谷氏はその若き日に京都に出て妻をめとり、新町高辻に小さな店を持っておられたが、今から約四〇年前の大正十年三月三日の夜明け前のことであった。不思議な霊人が彼の許に来て、寝ている彼を呼び起すのであった。

 「わしについて来い」と言って、手招きをするので、司完氏は早速支度をして、その霊人と共に家の外へ出たが、霊人は四条通りを東へ進んで祇園神社の境内に入った。霊人はお宮の本殿の前に坐って礼拝をするので、司完氏もまた同様の手つきで神を拝んだ。

 それから霊人は、将軍塚を指してお山に登って行かれるので司完氏も、また、その後から登って行った。山の途中でひとまず休息したが、その時霊人は大谷氏に教えて「人間は誰でも修行のためにこの世に生れて来たのであるから、どんな境遇におかれても必ずそこで修行を重ね、使命を果さねばならぬ」と言った。

 この話を続けて書くと長くなるから、筆者はここで打ち切ることにするが、その日以来、大谷司完氏は別に仕事をかえたわけではないが、家計のほうはだんだんと恵まれていくようになった。司完氏は、また自分が特に宗教教師になろうと思ったこともなく、一心に稼業に精出して、それによって「一身の修養」を積むことに努力した。

 こんな生活が四〇年も続いたわけだが、その後、霊人は毎週一度か或は二度、司完氏を迎えに来て不思議な場所に連れて行き、不思議な世界の不思議な人間とその生活とを見せて下さるのであった。

 ここに筆者が一言解説を加えておきたいことがあるが、それは霊人が司完氏を迎えに来る時、司完氏の霊魂が肉体から脱出して不思議な世界に行くのであって、この肉体もろとも地獄や極楽に行くのではないということである。しかし、この事実を説明するには心霊科学の知識が必要なので、これを常識的に解説することはできない。

〈中略〉

 大谷司完氏は、その後四〇年の生活において彼がしばしば霊人に連れられて不思議な世界に往き、不思議な人間とその生活を見たことを、いちいちノートに誌しておいたが、四〇年間にそれはすばらしい紙数にのぼった。

 そこで昭和三十二年の十二月、遂にこれを集めて書物として出版したのである。名付けて『天使の声』という。上・中・下の三巻よりなるものであるが、七インチ×九インチ半の大冊で、各五〇〇頁という大きな書物である。

 大谷氏は、人間の総てがこの地球上にただ一度、生れて来るのではなくて、幾度も輪廻転生することを、不思議な世界の人達から聴いて、自分のノートに委しくそれを誌しているのである。『天使の声』を読んでいると、それは東宝や日活の映画を見るよりも更に面白い。活動写真を見て涙が出ることもあるが、あとで考え直して「何んだ。あれは作り話だ」と思ったら涙もかわく。しかし『天使の声』の誌すところは総てが、地球以外の別個の地球の生きた写真であるから、面白くもあり、かつなるほどと合点がいくのである。

 

長々と引用してしまったが、神霊からの啓示を受けた宗教家という意味では、司完氏は相川明氏と同様である。

現在のことひら舎は、小規模でやっているのかもしれないが、表立った活動は見えない。

そんな中で「北海道本部」を名乗る宗教法人が現れたわけだが、相川明氏の教えを捨てての名称変更なのか、それとももともと司完氏と明氏で何らかのつながりがあったのか、その詳細は不明である。

ただ豊浦町の本部外観の荒ぶれ具合を見る限り、ここに人を集めて北海道ブランチとして司完氏の教えを広めているようにはちょっと見えない。

 

豊浦町の神殿が廃れていく一方、相川明氏の教えを広めている神道系単立宗教法人が実は札幌にあった。

 

相川神霊教院本院

認証年月日:昭和60年11月1日

事務所:札幌市厚別区厚別東3条7丁目7番1号

代表役員:相川美成

目的:

 この法人は教祖相川霊明の立教精神を遵奉し、主宰神天照皇大神・教祖大神・有賀姫大神を奉載敬仰して、神拝詞を所依の教典とし、天地を主宰り給ふ根源の神力に順応同化する神霊、神能の道を拓き、神人合一、交霊感応の境地を悟し、以て万物霊長の病苦、及び世俗の苦難を癒し、七難即減、七福即生の神徳を授け給いて人、世を治める万物和合の心身を培い清め、地上天国を創る教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを目的とし、その目的を達成するための必要な業務を行う。

 

豊浦町の相川神霊教院から分派したのだろうか。

"本院"を名乗っているところをみると、何らかの形で袂を分かち自らの正当性を主張しているような印象を受ける。

 

こちらの団体の本部をGoogleストリートビューで確認してみた。

 

小高い丘に建てられた大変立派な施設である。

厚別区にこんなところがあったとは。

公式のInstagramもあり、行事に多くの人が集まっている様子などが投稿されている。

 

 

また、施設内には相川明氏の座像もあるようだ。

北海タイムスに掲載されていた銅像と同じものだろうか。

 

Instagramには、明氏のプロフィールも紙芝居形式で詳しく掲載されている。

非常にわかりやすいので紹介させていただく。

相川神霊教院本院は昭和6年6月2日に立教、つまりお道が始まりました。

絵にある方が、開祖の御教祖様です。

御教祖様は数百万人の方々とのご縁とお救いにより今日の礎を築かれました。

なんと申しましても、大いなる霊力による有難く奇跡的お救いが凄いのです

 

当院の開祖、御教祖様は明治30年8月31日、東京で生まれました。

名を明と申します。

4~5歳の頃には山梨県で暮らしていました。

ところが、明治40年山梨県で大雨があり、その後、明治42年3月に北海道に移り住んだのです。

現在の豊浦町新山梨に入植したのでした。

 

昭和6年5月末のある日、夜寝ている時、明氏は不思議な御霊示を受けました、

「土を捨てろ、治病救世の道にいそしみなさい」というものでした。

つまり、土を捨てろとは農家をやめて、神の道で世のため人のために尽くしなさいということでした。

この御霊示を下さったのが親神様と仰ぐ天照大神様だったのです。明氏の運命が大きく動き始めた瞬間でした。

 

天照大神様のお力とお導きを信じ、神の道を歩むことにしました。

当時は大家族、皆を集め自身の決意を述べ、説得しました。そして各地を布教して歩くことにしました。

でもそのお金がありません。

そこでお蕎麦のタネを売って支度金にしたのでした。

明氏にも家族にも大変な決心でした

 

いよいよ明氏の布教の旅が始まりました。昭和6年6月2日のことです。

全道を10年間かけて歩き、己の神の道を布教する覚悟であったそうです。

ある日、室蘭でのこと。明氏は元気なく沈んだ感じの男性に会いました。

「どうしたのです」と声をかけると、自宅で奥様が病でふせり、医者もお手上げとのこと 「よければ私にみせてもらえませんか」との明氏の申し出に、わらにでもすがるきもちで男性は自宅に案内

 

男性に案内され自宅に着くと、そこにはお腹が腫れ上がった奥様が伏せっていました。

「私に少しお願いさせて下さい」。明氏は一心にご祈禱を致しました。

すると不思議と奥様の顔色が良くなりはじめ、気分が回復してきたのです。

その後、すっかり良くなられたとのこと。

このように、あちらこちらで病や怪我の方々をご祈祷し奇術的なお救いを現しました。

 

神通力で痛み苦しみを取り除く奇跡の噂は各地で広まってまいりました。すると良く言う人もあれば悪く言う人もいます

若者たちは「お前か、今噂の相川は」「不思議なことを起こすってホントか」「インチキじゃないのか」と口々に馬鹿にします

明氏は言いました。「よろしい、なら着いて来なさい」。

橋の上まで来ました。季節は秋 下に流れる川には産卵のためにたくさんの鮭が泳いでいました。

「よーく見ていなさい」そう言った次の瞬間

 

「いぇーーーい」と川面に向かい気合い一発かけたのです。

すると

なんと川の中を泳いでいた鮭たちが頭をそろえ、一直線に並んだのです いや神霊力をもって鮭たちを明氏が並べて見せたのでした。

その不思議な光景に若者たちもタジタジとなったと伝わっています このようにその神霊力により明氏を信じる方々が各地で増えてまいりました。

 

相川明氏は霊明(れいめい)先生と呼ばれるようになり、各地で奇跡的霊力をもって、病、痛み、苦しみをお救いしておりました。

すると信者様からの要望で、ひとつ所に落ち着いて欲しいとのことから、神殿を建立し、日々ご祈祷することになったのです。

 

このあともさらに興味深い話が続くので、気になる方はぜひ公式Instagramをご覧いただきたい。

 

さて、残る謎はなぜ2つの教団に分かれてしまったのか…であるが、そのカギとなりそうな記事を見つけた。

 

週間サンケイ1986年7月24日号には「北の奇蹟 奇蹟の神霊力で心身を癒す 御神示により札幌本院開設 相川神霊教本院」と題したこのような記事がある。

 昭和五十一年三月、霊明氏没後、天照皇大神と霊明氏の御加護をいただき、二代目として御神業を引き継いでいるのが、子息の相川昭美院主である。

 十六歳の時より、父君の元で修行に入った相川院主。以来三十一年間、先代の志を継ぐとともに、自らの神霊力を修行により高めてきた。「実の親が、この世のお救いばかりでなく、来世のお救いまでもいただける道をたてたのです。子供としてこの道を守り、正しくお広めしていくことが私の使命です。」と語る。

 昨年四月には大神様の御神示により、札幌市の厚別に「相川神霊教本院」を開設。待望の札幌進出を果たした。年間増加する信者の要望に応え、地方教院も各地に誕生しており、地域に密着した活動がなされている。

 

一方、こちらは週間サンケイ1987年10月22日号の「心の旅 やすらぎを求めて… 北海道 教祖霊明の意を継ぎ信仰者の心の糧として 神霊教院」と題した記事だ。

 昭和六年、相川霊明教祖立教の日より数えて五十六年の歳月が流れる北海道・神霊教院。

 『天を屋根とし、大地を布団として』(相川光明著)に記されている霊明教祖の生涯は、一教団の教祖という枠を越えた存在を再認識させるにふさわしい神と合一した人間としての稀有のエピソードに彩られている。

 そして、それを受け継ぐ教院の二代目は、霊明氏の子息相川光明氏(前記著者と筆者)であり、現在の院主である。さらに現教主の相川優尊氏は、三代目ということになる。

 この他、優尊氏の姉婿・堀永夷直参事長(至誠会代表)を中心に、無数に存在する信仰者集団が教院を側面から支えている。

〈中略〉

 北海道内は言うに及ばず、全国に数多い信仰者を有する神霊教院だが、特に本州から訪れる人々に、少しでも足の便を軽くしてもらおうという意向から、札幌市内に神霊教院札幌道場を設けており、現在ここの主管として活動を続けている相川優尊氏は、前述の通り、神霊教院教主の立場にある人。空港からほど近い場所に位置し、遠来の信仰者こ相談を一手にひき受けている。

 

お分かりだろうか?

この2つの記事はどちらも死去した相川明=霊明氏の教えを継いだ宗教法人の話をしているが、同じ法人の話をしているわけではない。

1986年7月24日号は厚別の相川神霊教院本院について、1987年10月22日号は豊浦の神霊教院について触れているのだ。

 

明氏亡き後、明氏の息子・昭美氏と光明氏の兄弟は(どちらが兄で弟かは不明)後継者争いでもめたのではないか。

昭美氏は豊浦を飛び出す形で厚別に新たな宗教法人を作ったのだ。

一方で豊浦の法人は明氏の息子・光明氏と優尊氏という人物が継いだ。優尊氏が光明氏とどういう関係にあたるのかについては、記事に言及がないのでわからない。

 

厚別の相川神霊教院本院は、紆余曲折はあったのかもしれないが、いまなお健在。公式Instagramを見ると、昭美(明美)氏は去年1月に84歳で亡くなっているが、相川美成氏という人物が二代目として継承している。

これに対し、豊浦の神霊教院はその後寂れてしまった。札幌の中央区界川にも道場を設けていたようだが、それもいつしか消滅。一体何があったのか、その理由がわかるような資料は見つかっていない。しかし、宗教法人として解散したわけではまだないのである。相川姓を受け継ぐ静氏が、名称を「ことしろ舎北海道本部」に改め今後どのような展開をみせていくのか、注目していきたい。