n戦後74年のこの夏
私は新たな事実を学びました。
 
明治期、広島に国会議事堂が移転
軍都広島に天皇陛下も居たということ
 
被爆者が宇品港から似島へ治療のために移送されていたこと
 
似島は検疫所として、
戦地からの帰還兵や馬の消毒をしてから本土に帰還する地とされていました
 
この事実は、似島の平和ガイドをしている元教師の方から聞くことができました
そして、今90歳以上の人であれば
この事実を知っているはずだと伺いました
 
 
そして、今日、おじいちゃんと戦争の話をすることができました
軍都広島の話や似島の話、全て知っていました
原爆投下一週間後、当時16歳のおじいちゃんは
政府から学徒動員という名の下
被爆地広島の宇品へ救援のために送られていたのでした
当時の同級生120名
瓦礫の撤去をしたとは聞いたことがあったのですが
実は、遺体を何箇所もある火葬場へ移送していた
ということを初めて話してくれました
火葬場はたくさんあったそうで
何度も運んだんだと話してくれました
 
本当は行きたくなかったけれど、
政府が行けということは絶対に断れなかった
田舎から出た広島市では
上空を米軍機が飛び、日本軍がそれを射撃するが
全く爆撃機に届いていなかったこと
それを見て、日本の技術がとても遅れていること
大金持ちの国と戦争をすることの間違いを悟ったとのことでした
 
当時農学校では、国から戦地へ赴く希望者を募っていたこと
それに対しておじいちゃんの農学校の先生は
応募しないようにと生徒たちに伝えていたそうです。
先生は理由を言わなかったけれど、
命を大切にして欲しいと思っていたのではないか
そうおじいちゃんは話してくれました
 
 
おじいちゃんは90歳
認知症患者でもあります
すべての記憶が正しくない可能性もあるけれど
私はその全てを信じたい
 
 
政府の言うことに逆らえない世の中に
二度と戻らせないために
もっと平和や、権利について学び、伝えられる国際人でいたい
そう思ったお盆です