駿河台周辺駆けめぐり(周辺地図参照再掲)
山の上ホテルを始めとして、その周辺には歴史的な建造物や学校が多く存在し、新刊・古書店街、スポーツ店、楽器店などが数多立ち並ぶ文教的色彩の濃い特色のある町並みで、その中からの駿河台周辺に絞り、スポットをあてて駆けめぐりしてみました。
明大通りは、駿河台下から御茶ノ水駅方面に向かうと緩やかな坂道となっており、御茶ノ水駅前の神田川のてっぺんを通る、駿河台と本郷を結ぶ橋が御茶ノ水橋です。
神田川は、江戸時代に本郷台地を切削して作られた人工の運河で、左岸と右岸は地続きの神田山と呼ばれていました。

御茶ノ水駅
「御茶ノ水駅」は、神田川南岸沿いにJR御茶ノ水駅があり、明大通りに面した御茶ノ水橋口と本郷通り側の聖橋口があります。また、神田川北岸にはメトロ丸の内線の御茶ノ水駅があり、両線の乗り換え通路は「御茶ノ水橋」(聖橋から見た御茶ノ水橋)を渡って利用します。
御茶ノ水駅は、JRが中央線と総武線の2線とメトロ丸の内線が、神田川上で3線が立体交差をしている珍しい構造で、鉄道ファンを引き付けるところです。しかし、鉄道ファンには残念ですが、御茶ノ水駅から目と鼻の先にあった交通博物館は、2006年5月14日をもって惜しまれおながら閉館しました。お別れの「さよなら交通博物館」には、行きたかったのですが、混雑等で行きそびれてしまいました。

お茶の水の石碑
JR御茶ノ水橋口駅前の交番脇に、「お茶の水の石碑」があり「お茶の水の由来を記した碑」があります。碑のあるこのあたりは西駿河台と呼ばれ、そのいわれの「説明版」が建っています。
・お茶の水由来石碑(石碑文抜粋)
慶長の昔、この邊(あた)り神田山の麓(ふもと)に高林寺(こうりんじ)という禅寺があった。ある時 寺の庭より良い水がわき出るので 将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて 大変良い水だとお褒(ほ)めの言葉を戴(いただ)いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺を お茶の水高林寺 と呼ばれ、この辺(あた)りをお茶の水と云うようになった。

湯島聖堂
御茶ノ水橋を本郷側に渡り、秋葉原方向に進むと道路は聖橋の下を潜る立体交差になっており、聖橋を潜る手前に石段がありそれを登ると本郷通りにでます。湯島聖堂は、本郷通りに面したこんもりとした森にあり、元禄3年(1690年)、五代将軍徳川綱吉によって建てられた「孔子廟」、「神農廟」と昌平坂学問所跡で、大正11年(1922年)に国の史跡に指定されました。
湯島聖堂の由来(抜粋)
湯島聖堂と孔子
孔子は二千五百年ほど前に中国魯の国に生まれ、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えました。儒学に傾倒した徳川五代将軍徳川綱吉は、この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や「学舎」を建て、聖堂は創建316年を迎えています。
昌平坂学問所跡
寛政9年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、孔子の生まれた地名をとって、「昌平坂学問所」を開きました。学問所は、明治維新に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。
明治維新により、聖堂は新政府の所管となり、明治4年に文部省が設置され、国立博物館(今の上野)や東京師範学校(今の筑波大)(今のお茶の水女子大)が置かれ、近代教育発祥の地となりました。
現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回もの江戸の大火で焼失し、大正12年の関東大震災でも焼失し、昭和10年(1935年)に鉄筋コンクリート造りで再建したものです。ただし、入徳門は、寛永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっております。

聖橋
湯島聖堂から、本郷通りを南に進み神田川とJR線を跨いでいる橋が「聖橋」(御茶ノ水橋から見た聖橋)です。聖橋際に由来の碑があり、聖橋南の駿河台のニコライ堂と本郷の湯島聖堂の二つの「聖」なる建物の間のかかる橋というのが「聖橋」の名の由来で、公募により決まったとのことだそうです。聖橋の建設は、建築家・山田守(1894-1966)が昭和2年(1927年)に落成したものです。

ニコライ堂
ニコライ堂は、正式名称を「日本 ハリストス正教会東京復活大聖堂」というロシア正教の教会の建物で、明治24年(1891年)落成した。1992年に石造りで大聖堂の修復が開始され、9年をかけて完成し、日本の国の重要文化財として始めての石造の文化財となりました。日本ハリストス正教会は、1861年に聖ニコライ大主教が函館のロシア領事館付の司祭として日本に来たときが始まりです。

50年前のわが学びや明治大学
明大キャンパスの変遷
前回日記で記述の様に、昭和31年(1956年)に卒業した明大工学部(写真再掲)は、周辺地図(再掲)に記載の様に本郷通りの駿河台東地区に孤立してありました。工学部時代には駿河台西のキャンパス群とは離れていたため、11号館にあった「電気磁気」実験室での実験の時や、明大記念館の地下にあった体育館での体育実技の時くらいしか縁がありませんでした。
昭和31年撮影の駿河台キャンパスの展望写真と、同一場所の現在の駿河台キャンパスを比べて見ると、明大記念会館跡にリバティタワーが建ち、明大通りに面していた白亜の大学院校舎跡には、通りよりバックした位置にアカデミーコモンが建てられ、キャンパスが時代と共にまったく大きく変化しております。
なお、明大工学部は、生田校舎に移転して1989年には理工学部が設置されました。

昭和31年撮影の駿河台キャンパス

明治大学記念館
明治大学記念館は、明治大学創立30周年記念の1911年10月に落成したものです。
80有余年の永き学びやの役目を果たした記念館は、老朽化により1995年11月11日「さよならDay」を持って壊されました。
この記念館の跡には、1998年9月の創立120周年記念館リバティタワーが建てられました。建物頂上部に緑のドームをつくり、低層部にも旧建物のイメージ像を残しました。また、23階中央に位置する岸本辰雄記念ホールには、旧記念館の記念遺品であるステンドグラスとエンジェル及び玄関外灯が再現されており、歴史を物語る品々が展示されています。
また、2004年1月にはアカデミーコモンが竣工しました。アカデミーコモンには、大学史展示室があり、古賀政男の使用したギターが展示されています。
元工学部が建っていた附近
工学部への通学路は、御茶ノ水駅の聖橋口から右にニコライ堂を見て、本郷通りを靖国通り交差点に出るちょっと手前の進行左側にありました。当時は、現在の様に高いビルが林立しておりませんでしたので、ビルの陰に隠れることも無く本郷通りからは青銅の丸屋根がどこからも良く眺められました。
当時の本郷通りは、明大通りの様な華やかな商店街はなく、自動車も殆ど走っておらず大通りにもかかわらず、いつも閑散としておりました。50年経過した工学部校舎跡地の目標がうる覚えですが、跡地と思われるところに建てられているビルを撮影してみました。
明大キャンパスの遥かなる青春時代
工学部通学時代は、やっと戦後の復興期で資材や資源もまだ乏しい時代でしたので、時たま校舎が停電に遭い授業が行えなく休講となりました。そのまま家に帰るのも何か中途半端な気持ちとなり、当時の大衆娯楽である映画館にと足が進みました。
また、「電気磁気」実験のパートナーの同組であったメンバー6名とは、息が合いよく行動を共にしました。卒業後も、登山やスキーに出かけたりして、今では遥かなる青春時代が懐かしく想い出されます。
50年後の現在も毎年秋に一泊の旅行を伴にしておりますが、全員が健在ではないのが残念です。

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