
写真は、現在の旧呑川河口付近
若山武義氏手記の解説 その4
いよいよ、若山武義氏の手記「(戦災日誌大森にて)」も最終回を迎えました。若山氏は、大森大空襲で住居を焼失したため、その後に中野の借家で過ごした戦後までの僅か3ヶ月の間にも、二度目の大空襲被災に遭遇しました。次回から、手記の第2編「(戦災日誌中野にて)」を掲載します。
・大森第一国民学校
前回の「解説 その3」に記述の第一国民学校(現大森第一小学校)は、産業通りに面しており私の母校です。1940年に、小学1年生に入学した時には大森尋常第一小学校(校章1920年制定)と呼んでいましたが、1941年4月から大森第一国民学校と呼び名が替わり、当時軍国主義を目指した改革で、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「小国民」の育成を目指していました。
第一国民学校は、4月15日の大森町大空襲の爆撃により全焼し、大森第五国民学校(現大森第五小学校)の教室を借りて、授業をすることになりました。(同時に全焼した、大森第二国民学校戦災の絵資料写真)
しかし、私は学童疎開(縁故疎開)により、茨城県の岩瀬町第二国民学校と、途中から栃木県の物井村物井国民学校に通学しておりましたので、大森第一国民学校の戦災には遭遇しませんでしたが、1945年に疎開から引き上げてきてからは大森第五国民学校に通学したのです。
私の戦前・戦時中・戦後の小学校、国民学校時代についての記録を、「大森町界隈あれこれ 幼稚園から高校までを大森町の学びやで」で記述する予定です。
・呑川
若山武義氏が大森町の住居近くのロータリーで空爆により被災し、命からがら逃げ延びた呑川川端の呑川は、現在は川を埋め立てて旧呑川緑地帯に変遷しております。
呑川の由来を見ると、呑川の水源は、世田谷区内の旧深沢村の南部一帯といわれ、大田区をほぼ縦貫して東京湾にそそいでおります。名前の起こりは、大雨のたびに氾濫し流域の田畑を呑みこんでしまったからとも、または貴重な飲み水であったからともいわれていますが定かではありません。
この呑川は、京浜蒲田の夫婦橋下流付近から東北に蛇行して海にそそいでいるのとは別に1935年、羽田の田畑を一直線に東進して藤兵衛堀に至る新河川(新呑川)を設け、従来の呑川と共に活用されました。(「鎮魂!大森町大空襲(第10回)」トップ掲載地図再掲)
呑川や旧呑川緑地帯および大森町の風物・風景について、「大森町界隈あれこれ 大森町百景」で記述する予定です。
若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」最終回
鎮魂!大森町大空襲 合掌
ねるだんになったら、田中の良ちゃんが「おうちへかえろうよ」と云い出して中々きかない。
「良ちゃんのおうち、やけてなくなったのよ」「うん、僕のおうちやけちゃった」と云いながら「おうちへかえろうよ」と泣き出した。
翌日、火が全くなくなってからの被害の甚大なのには改めて驚かされた。大森、蒲田の重要工場地域殆ど全滅だ。疎開で建家のとりこわしなんか、莫大な費用と労力を浪費してただ焼いてしまった。本当に無駄な人騒がせと役にも立たぬ疎開をやったもんだ。大本営発表も今迄にない二百機と云う大編隊の波状爆撃で「相当の被害あり」と。
今迄は竹ツッポ焼夷弾しか知らぬ我々は敵の新兵器の大型焼夷弾と爆弾の混合投下で全く驚愕した。之等の新兵器に対しては、玩具に等しポンプや、火叩き、バケツの訓練は何の役にも立たなかった。ただ逃げるに精一杯であった。
二日二晩、喜多さんに厚い御世話になって、小林さんは郷里前橋に、伊藤さんのお母さん、田中さんたちが引続き残り、私は仙台に帰る仕度をした。
此の日の戦災に因り、十全病院経営者田中新一郎殿が御家族と共に防空壕内に於て災死せられたり、茲に深く哀悼し奉る。
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