
写真は、現在の呑川橋ですが、呑川は埋め立てられ橋の下には川が流れていません。
若山武義氏手記の解説 その1
若山武義氏手記クライマックスに入り、前回「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)」(5月11日)から、大森町の大空襲の場面が登場して参りました。
手記は、60年も前に記述されたものでありますので、現在の地名とは異なったり、また現在では見られない物や風物が出てきてます。そこで、今回からこれらについての理解をして頂くための解説を、大森・蒲田戦災地図(出典:下記に示す)を元に説明を致します。
(大森・蒲田戦災地図出典:1945年9月撮影の米国陸軍空中写真で編纂した日本地形社製作の1946年12月仮製版を、㈱之潮が2005年8月8日に複製した大森編と蒲田編で手記に関連する部分のイメージを利用して、情報を加味加工編集して合成したものです。)
鎮魂!大森町大空襲(第7回) 手記掲載解説
・ロータリー
当時の京浜国道と産業道路とそれに美原通リとの交差点(戦災地図大森編参照)は、四叉路で、ロータリー交差点になっておりました。1945年代は、現在のように車社会ではなく、京浜国道のような幹線道路でも、走行車両は大変少なく四叉路で信号機がなくても通行ができる時代でしたので、ロータリー交差点で支障がありませんでした。
国土交通省の説明によると、ロータリー交差点は、1934年に東京都の和田倉門交差点において、我が国で初めて設置されてから、1941年までに43交差点が整備されました。しかしながら、戦後になり、①大型車の通行に支障がある、②信号交差点に比べて交通容量が小さい、③一般に必要面積が広く、用地の確保が困難な市街地では採用が難しい。
等の問題があることから、主要交差点からは姿を消してしまうこととなりました。
その後、車社会の到来により、信号機の交差点では渋滞が慢性化したため、現在では立体交差となり、有名な大森警察署前の交通渋滞情報は解消しました。
ロータリー交差点の機能およびロータリー写真例が、道路設計会社のシビルテックWeb(リンクフリー)に掲載されておりますので、参照して下さい。
・ロータリー交差点の機能
・ロータリー交差点の写真例(福岡県八幡区にあるロータリー交差点)
大森町ロータリー交差点の構造は、八幡区のロータリー交差点とは若干構造が異なり、ロータリーが盛り土で一段高くできており、その周囲には人が跨げる程度の高さのコンクリート製土手が築かれておりました。まだ、学童疎開前時代に近所の腕白供達と、ロータリーの土手内に飛んでくるトンボやバッタなどの昆虫採りをした記憶があります。
若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第7回
大森町大惨劇
「逃げろ」と云うた、「逃げてくれ」と云うたか、消す処の沙汰ではない。全く四方猛炎に包まれて、平素の覚悟や訓練なんかすっとんでしまって全く周章狼狽、混乱のまま我れ勝ちに安全の処、安全の処と非難するより外なかったのである。
私も一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹きつけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。
呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふるかえって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、背後から突然カン高い女の声で呼ぶ声がする。ふりかえって見ると佐久間君夫妻だ。赤ちゃん背に、着のみ着のまま。疎開でやっと梅屋敷のアパートに落ち着くまもなく今夜の直撃で命からがら逃げて来たとの事。先ずお互いに無事で何よりだと喜んで、励まし励まされつつ森ヶ崎の入り口の処まで来て立ち竦んだ。
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