
東京大空襲の記録資料(1) 根津山小さな追悼会10周年記念文集についてその2
前回の資料紹介で掲載しました空襲の記録文集「4・13根津山小さな追悼会 ―10周年記念文集― 私たちの街に大きな空襲があった」の入手を希望し申込みにより、4月22日に郵送にて届きました。
早速、手にしたところ、表紙や本文中の随所に花のイラストで意匠された、明るくて品のある本文が80ページの文集で、やや厚めの用紙を使用し長期保存に配慮された装丁の素敵な文庫本です。一見、はじめこれが61年前に東京大空襲で悲惨な被災体験を綴った追悼の文集かなと思ったほどです。
ページを開くと、空襲当時の年齢が5~7才の幼児から軍需工場に勤労奉仕として通っていた14~17才女学生までの方々が、爆撃により身内の親兄弟を亡くされたり、焼夷弾の火炎の中で火傷や怪我をしたり、家屋や生活品の何もかも焼き尽くされたりの凄惨な体験記の寄稿が20編ほどと、「4・13根津山小さな追悼会実行委員」の矢島勝昭さんの画かれた「画集 二十世紀の情景」の中から選ばれた戦時中の情景を描画した挿絵とイラストが挿入されており、東京空襲時代当時のイメージが見られまます。
当時、私は国民学校の6年生で学童疎開のため東京大空襲は直接には体験しませんでしたが、空襲を実体験した方しか言い尽くせない悲惨な文集の記憶は、見る者の胸を締め付け、戦時を過ごした者には、戦争は二度と繰り返してはならないと願っております。
それ以上に、文集を寄稿された方々と、4・13根津山小さな追悼会実行委員の方々は、戦争の悲惨さを語り、戦争を知らない者に平和の尊さを訴えております。
幸に、戦争非体験の方の寄稿もみられ、風化の空襲記録が語り告がれる兆しもありますが、戦争の知らない方には、戦争の欠けらもない今日、是非文集を読んで頂き戦争の悲劇を繰り返さないように務めて貰いたい気持ちで一杯です。
このテリトリーの若山武義氏の手記「鎮魂!大森町大空襲」も、戦争の無意味を少しでも伝えられたらの思いで記載しています。
若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第3回
大吹雪の空襲

当時の隣組風景その1 写真は手記記事とは関係ありません。
先ず防火群長の方は田中さんと伊藤さんにお任せして、組長の方は関井さんとやることになって、一つ重荷はなくなったと安心して居られぬ程事態が急迫してきた。それは今迄は、敵機の来襲は晴天の時に限られた、故に「今夜は雨だから来ませんなと安心出来たが、敵は如何なる新装置を発明したものか、雨が降ろうが雪が降ろうがおかまいなしにやって来るので閉口した。
晴れた日や月夜なら敵機の動向がわかるから「あっちだ」、「こっちだ」と安、不安がはっきりするけれども、曇天や雨では、音はすれども姿は見えず、などと呑気の事を云うては居れない。特に夜間は探照灯の閃光で其の方向を知るより外なく心細さ、真に不安限りなしだ。
「各防火群の皆様、防火水桶に水がはって居ります、万一の場合支障なき様に」と注意されるまでもなく、みんな其の都度氷割りだ。拙宅のスタンドは京浜国道と羽田国道の分岐点で、四方見透しがきくから、自然に防空関係者が来る。向う隣組長徳丸さん、杉本群長さんの威勢のよい号令、こちらは関井さん、小林さん、伊藤さんと来る。解除になってホット安心、御苦労さん、御休みなさいと挨拶してお互いは別れて就寝する。
当時の隣組風景その2 写真は手記記事とは関係ありません。
敵は一挙に来襲して来た後は、毎日毎夜、二度、三度偵察に来る。一機だからとて油断も出来ないし、馬鹿にも出来ない。所轄敵の神経戦だ。やっと解除になって寝たかと思うと、亦ブーだ。本当に又かとうんざりする程、腹が立つ程来襲が煩繁になって来た。
特に、2月25日の夜、大吹雪の晩の来襲に、本郷、神田、下谷、浅草にわたる大爆撃の時、この大雪の戦災に焼け出された人々の苦難、困惑如何ばかりかとおもう時、真に断腸の思いだ。戦災はお互いだ、今日は人の身、明日は我が身である。ただただ怪我あやまちのないようにと神に祈るより外なく。猛烈な吹雪にふるえながら手に汗をにぎり、ただ忘然と見て忮むより外ない。
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