
日記を開始して以来10回目の投稿にあたり、大森町に住んで65年となり、ここで、新たなカテゴリの「大森町界隈あれこれ」を新設して、大森町の今昔の連載を進めていきます。
大森町は古く江戸時代から大森海苔の有数な産地で名をはせており、今でも海苔加工産地であることは余り知られておりません。
ブログの5、6回で記述の61年前3月10日の本所、深川、浅草を中心とした東京大空襲では10万人を越える犠牲者がでましたが、1945年4月15日空襲で大森町近辺が焼き尽くされました。
歴史の風化が進み、大森海苔干し風景の風物詩や、戦争を知らない世代が10人中8人とも云われ、今語り継がないと後世に伝わらないとの思いから、「大森町界隈あれこれ」を記述して参ります。
幸いのことに、父と同一勤務先の若山武義氏の戦中、戦後の貴重な手記が保管され残されておりました。遺族の石川清様ご好意のご提供により、先ずは「大森町界隈あれこれ」鎮魂!大森町大空襲編と、次いで大森町の戦後混乱期編の手記を掲載する予定です。
また、「大森町界隈あれこれ」には、今後の大森町の今昔物語として、大森町界隈の歴史や見所、大森町駅付近の京急の変遷と京急高架化工事、蒲蒲線鉄道新線計画、大森町で幼稚園から小学・中学・高校までを通学した学校変遷などなどについても掲載します。
大森町に住んで65年!
大森町に住みついたのは昭和13年(1938年)で、居住場所は住居地図に示す国道15号(第一京浜)の三叉路に分岐した、国道131号(産業道路)の大森警察署に面したA地区が、父の転居勤務先事務所であり、その2階が大森町ではじめての社宅住まいとなりました。
敗戦色が濃くなってきた1944年に学童疎開がはじまり、茨城県と栃木県にある母方の親類の縁故疎開生活で大森町の生活から離れざるを余儀なくされました。
1944年の夏頃、防空上の理由で建物の強制疎開が行われ、大田区では1万2千世帯の家屋が取り壊されました。大森町の社宅も、強制疎開により住居できなくなりました。
1945年8月15日の終戦により、同年秋に一帯が焼け野が原の東京に引き上げましたが、住まいは父の勤務先会社事務所跡(住居地図B地区)に間仕切りした部屋に、居候の生活で再び大森町生活に戻りました。
居候生活は何時までもできないため、昭和24年(1949年)に大森町駅(当時は戦災で消失のため駅は運営休止状態でした)付近に土地を借りて,平屋2間のバラック建ての仮住居に移りました。それ以後同所が、大森町住まいの本拠となり今日まで住んで、65年を経過しました。
大森町って何処
インターネットで大森町(http://www.netoomori.gr.jp/)を検索すると。「大森町(おおもりまち)は秋田県の東南部にあった町町。2005年10月1日に市町村合併で横手市となった。」とあり横手市にあります。
秋田県の大森町と吾が大森町とは姉妹都市を結んでおり、大田区開催のイベントの大森フェスティバルには出店されてます。
では、わが大田区大森町とは何処にあるのでしょうか。地名の変遷などを、次回でご紹介します。
次回 大森町に住んで65年!(その2)へ>