永六輔さんは言葉の達人だったね。初めて会ったのは30、40年くらい前。ラジオ番組に呼んでもらった時、僕の顔を見て「人生ってさ、年を重ねると知り合いができて友達ができて。だけど、もう知り合いもいらないね。付き合う時間もないし。でもね、その中でも友達になりたいっていうのが出てくるんだよ。欽ちゃん、よく来たね」。
僕ね、このセリフ聞いてしびれちゃって。こんなにすてきな言葉で出会った人いるかなと思ってね。
尺貫法を守る運動とか、そうそう気づかないところを突いてくるところが永さんにはあって、ちょうど僕がテレビをやろうとした時、何か違う笑いの時代が来てるなと気づくわけ。僕はプロだから「笑わす」ってやってたけど、永さんたちのは「笑ってしまう」なの。それで番組に素人を出そうと思いついて、そのあと僕の視聴率30%番組が全部「笑ってしまう」になった。
たとえば僕が「これはだめだね」と言えば、永さんは「だめなことない」と逆の言葉で枠を超えていく。永さんに褒められると思ったら怒られて、怒られると思ったら褒められる。そんな番組ができたら面白いなと企画したこともある。実現はしなかったけどね。
■不幸放っておけない
毎年この季節には戦争の特番が組まれるけど、平和だと気づかせるために、笑いが何かしたかというと、何もしていないと思う。平和に向かって行動するっていうのはあまりに格好良すぎて。僕がテレビでやったのは「少なくとも不幸でない」「不幸は放っておけないぞ」って部分。
ただ、戦争が終わって、テレビを見ている人たちは昔のような「整列せよ、この線からは出るな」というところから、もう出てもいいんじゃないかと思ってた。実際にそうする勇気はないのだけど。だからコント55号はその線から飛び出ていったんです。
青島幸男さん、野坂昭如さんなんかも自分の考えをひと味違う言葉で表現する人たちでした。一度会うと、自分の人生が一発で変化しちゃう。たとえば視聴率30%番組ができた時、周りの人はみな「ほかの番組はしないほうがいい」と言うのに、野坂さんは「毎日見て嫌じゃない人がテレビタレント。欽ちゃんは出なさすぎ」って! そう言われて突っ込んでいったら、30%番組が3本もできちゃった。人生が急カーブさせられる言葉をもらった。
彼らに共通するのは、決まっていた言葉の行き先や終着点をがらっと変えたこと。あの頃は、生まれたら戦争へ行くと決まっていた。でも終戦で、これからは自分で生き方を考えていいと言われて、どうしていいか分からない。そんな時に大人になったんですね。だから、「言葉も自由に、もっとはみ出していいんじゃないの」と伝えてきた。戦争を体験している最後の人たちだったからこそ、言葉の壁をぶち抜けたのかな。いろんな悲しみをまともに受けたのに、戦争を忘れようとしなかったのは、すばらしい先輩だった。もう少し、あの人たちの話を聞きたかったね。
僕は政治への関心はすごくあって意見も持っているけど、民主主義や政治とは別の世界に生きていると思ってきました。
ある時、コント55号でね、(坂上)二郎さんがアドリブで「神様、仏様、佐藤総理、私を助けてください」って言って、僕は「そんなものにお願いしたって、余計に助からないよ」って突っ込む。そしたら、放送では佐藤総理のところだけ音声がカットになってた。そのとき、政治って近寄らない方がいいとドアを閉められた感じがしたの。でも、社会の中で感じる違和感や、みんなが深刻がっていることを少しずらして笑いにしていました。今度は怒られないよう、急所には触れずね。
■もう政治をやってる
テレビで活躍していた40代の頃、選挙に出ないかと誘われたことがあったの。「政治って何をやるんですか」と聞いたら、「朝から晩まで国民を笑わせる。みんなが幸せに笑う国を作ること」と、それなら、みんなが一日中笑える時代が来るまで僕は中継ぎで十分。一週間に一日笑わせますと言って断った。もう立派な政治をやってるって。だけど、ずいぶん中継ぎが長くなっちゃったね(笑)。
僕ね、このセリフ聞いてしびれちゃって。こんなにすてきな言葉で出会った人いるかなと思ってね。
尺貫法を守る運動とか、そうそう気づかないところを突いてくるところが永さんにはあって、ちょうど僕がテレビをやろうとした時、何か違う笑いの時代が来てるなと気づくわけ。僕はプロだから「笑わす」ってやってたけど、永さんたちのは「笑ってしまう」なの。それで番組に素人を出そうと思いついて、そのあと僕の視聴率30%番組が全部「笑ってしまう」になった。
たとえば僕が「これはだめだね」と言えば、永さんは「だめなことない」と逆の言葉で枠を超えていく。永さんに褒められると思ったら怒られて、怒られると思ったら褒められる。そんな番組ができたら面白いなと企画したこともある。実現はしなかったけどね。
■不幸放っておけない
毎年この季節には戦争の特番が組まれるけど、平和だと気づかせるために、笑いが何かしたかというと、何もしていないと思う。平和に向かって行動するっていうのはあまりに格好良すぎて。僕がテレビでやったのは「少なくとも不幸でない」「不幸は放っておけないぞ」って部分。
ただ、戦争が終わって、テレビを見ている人たちは昔のような「整列せよ、この線からは出るな」というところから、もう出てもいいんじゃないかと思ってた。実際にそうする勇気はないのだけど。だからコント55号はその線から飛び出ていったんです。
青島幸男さん、野坂昭如さんなんかも自分の考えをひと味違う言葉で表現する人たちでした。一度会うと、自分の人生が一発で変化しちゃう。たとえば視聴率30%番組ができた時、周りの人はみな「ほかの番組はしないほうがいい」と言うのに、野坂さんは「毎日見て嫌じゃない人がテレビタレント。欽ちゃんは出なさすぎ」って! そう言われて突っ込んでいったら、30%番組が3本もできちゃった。人生が急カーブさせられる言葉をもらった。
彼らに共通するのは、決まっていた言葉の行き先や終着点をがらっと変えたこと。あの頃は、生まれたら戦争へ行くと決まっていた。でも終戦で、これからは自分で生き方を考えていいと言われて、どうしていいか分からない。そんな時に大人になったんですね。だから、「言葉も自由に、もっとはみ出していいんじゃないの」と伝えてきた。戦争を体験している最後の人たちだったからこそ、言葉の壁をぶち抜けたのかな。いろんな悲しみをまともに受けたのに、戦争を忘れようとしなかったのは、すばらしい先輩だった。もう少し、あの人たちの話を聞きたかったね。
僕は政治への関心はすごくあって意見も持っているけど、民主主義や政治とは別の世界に生きていると思ってきました。
ある時、コント55号でね、(坂上)二郎さんがアドリブで「神様、仏様、佐藤総理、私を助けてください」って言って、僕は「そんなものにお願いしたって、余計に助からないよ」って突っ込む。そしたら、放送では佐藤総理のところだけ音声がカットになってた。そのとき、政治って近寄らない方がいいとドアを閉められた感じがしたの。でも、社会の中で感じる違和感や、みんなが深刻がっていることを少しずらして笑いにしていました。今度は怒られないよう、急所には触れずね。
■もう政治をやってる
テレビで活躍していた40代の頃、選挙に出ないかと誘われたことがあったの。「政治って何をやるんですか」と聞いたら、「朝から晩まで国民を笑わせる。みんなが幸せに笑う国を作ること」と、それなら、みんなが一日中笑える時代が来るまで僕は中継ぎで十分。一週間に一日笑わせますと言って断った。もう立派な政治をやってるって。だけど、ずいぶん中継ぎが長くなっちゃったね(笑)。