【HK14S/001】◎夏目漱石◎「こころ」◎先生の遺書(一)◎ | HK5STUDIO/CONVENI

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【HK14S/001】◎夏目漱石◎「こころ」◎先生の遺書(一)◎

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私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。

私が先生と知(し)り合(あい)になったのは鎌倉(かまくら)である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達から是非来いという端書(はがき)を受取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛(でかけ)る事にした。私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうして可(い)いか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固(もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。折角来た私は一人取り残された。

 学校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日数(ひかず)があるので、鎌倉におっても可(よ)し、帰っても可いという境遇にいた私は、当分元の宿に留(と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。従って一人坊(ひとりぼっ)ちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒も有(も)たなかったのである。

 宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった。玉突(たまつき)だのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘は其所此所(そこここ)にいくつでも建てられていた。それに海へは極(ごく)近いので海水浴を遣(や)るには至極便利な地位を占めていた。

 私は毎日海へ這入(はい)りに出掛けた。古い燻(くす)ぶり返った藁葺(わらぶき)の間を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺(へん)にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯(せんとう)のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人も有たない私も、こういう賑(にぎ)やかな景色の中に裹(つつ)まれて、砂の上に寐(ね)そべって見たり、膝頭(ひざがしら)を波に打たして其所いらを跳(は)ね廻(まわ)るのは愉快であった。

 私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間に見付出(みつけだ)したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった。私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こしら)えていない此所いらの避暑客には、是非ともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった。彼らは此所で茶を飲み、此所で休息する外(ほか)に、此所で海水着を洗濯させたり、此所で鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、此所へ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へ這入る度(たび)にその茶屋へ一切(いっさい)を脱ぎ棄(す)てる事にしていた。